教会の問題に思う -平安からの逸脱−
■いわゆる教会問題、すなわち教会の中で起こる問題について、私の師Colin Urquhartは、その原因はすべてメンバーの一部が安息から逸脱することによる、と言っております。私たちはしばしば人間的レベルから見て、Aさんが悪い、Bさんが正しい・・・と果てしない論争を重ねるものですが、その問題の根本は平安を失っていることです。クリスチャンにとっての勝利とは自己主張が認められることではなく、平安に留まることであり、クリスチャンの敗北とは自己主張が通ったとしても、平安を失うことです。平安こそ私たちの計り縄です(コロサイ3:15)。
■平安を失うことの原因はどこにあるのかというと、結局は御言葉に服することができないことにあります。ある御言葉を読んだり、聞くとき、御言葉をダイレクトに受けることができずに、それに対して自己弁護あるいは"解釈"と称して、ある種の歪曲を加えてしまうとき、実はそのことによって、その御言葉と関わる領域にある種の葛藤があることを見て取れます。私たちは人から何かを言われて動揺を覚えるときには、実はすでにそのことを言われる以前にその部分に葛藤があったのです。人に言われたから平安を失うのではなく、すでに葛藤があったので、平安を失うのです。
■その領域は結局、自分を主張している領域、主に明渡していない領域、自分の何かを保留している領域、神と人に対して隠して置きたい領域、そして御霊に服することのできない領域なのです。主は言われました、「わたしに従うものは、自分の十字架を負って、従いなさい。自分の魂を自分で得ようとする者はそれを失い、失う者はそれを得る」(ルカ9:24)と。魂とは自己意識の座です。またその特徴は自己主張と自己弁護です。要するにメンツと言い訳です。この世はすべてこれらで成り立っていることは政治家の答弁を聞けば明らかです。クリスチャンにとって自分の何かを守り続けることは、とても大変であることは誰が知っています。手放してしまえばすぐに楽になれます。自分から意識が離れて、自分の何かを放棄すること、ここに平安を得るコツがあります。
■教会の中で生じる問題はすべて自分の何かを守ろうとすることから生じます。すると御言葉に対する目が曇り、御霊の導きに対する感受性が鈍くなり、その結果事の真実を見抜けなくなり、起きていることの本質から離れたところで事態の収拾を計ろうとしてますます事態をこじらせます。解決を得ようとすれば、むしろ失います。主にあって手を離して"それ"を失えば、むしろ得るのです。自己主張を降ろせば、それは通ります。自己弁護を放棄すれば、自己のメンツを得ます。その時実は何にも代え難いキリストにある平安を得ることができるのです。教会の中で様々なトラブルに巻き込まれるとき、私たちは聖霊の声に耳を傾けましょう。すると霊で事の真実を知ることができます。霊は事の真実を一瞬にして見抜くことができるのです。誰が正しくして、誰が間違っている、という判断基準は人間の目によるものです。神の判断基準は、誰が平安に留まり、誰が平安を失っているか、です。自分を降ろし、御霊に明渡し、御言葉に服することのできること、これが神によって評価されるすべてです。(01.02.13)