人の心の不思議に思う −曲がった弓(詩篇78:57)―
■聖書は人の真実を徹底的に暴いている。いわく「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく病んでいる。」(エレミヤ17:9)。黒澤明の名作に『羅生門』という映画がある。荒廃した羅生門に一人の男が座って、「不思議じゃ、不思議じゃ・・・」とつぶやく場面から始まる。そこに登場する一人の僧に向って彼は自分が経験した話をし出す。2人の男と1人の女がある"一つ"の事件に巻き込まれるのであるが、それぞれの証言が微妙に食い違っており、時に真っ向から矛盾する証言をしているのである。それぞれ自分に都合の良い内容になっているのであった。人の心はかくも偽りに満ちたものであることを黒澤は白黒の画面にその絶望感をダイナミックに描いている。唯一の救いはラストシーンにおいて、羅生門のもとに捨てられた赤子を僧が抱き上げる場面である。新しいいのちに一筋の光明を見出すのである。
■生理学的に見て、私たちの五感から入る情報は、すでに目の網膜レベルにおいて加工されており、生の情報ではなくなっていることが知られている。目で見るものが真実であると思ったら大きな間違いを犯す。さらに認知心理学によると、五感から入った情報は大脳のそれぞれの中枢において処理された後、それに対する解釈が施され、意義付けがなされ、私たちの認知空間の中に位置付けられていく。それに基づいて私たちの内的な世界モデルが構築され、それが積もり積もると人生観や価値観を作り上げる。この時点でその世界のモデルは相当に歪んだものとなっており、そのモデルにそって、意思決定をして、最終的に何らかの行動がなされ、その実を得る。私たちは自分の判断が絶対であると思ったら、その時点で欺かれている。自分の心は曲がった弓であることを十分に知るべきであり、ここからまことの真理である御言葉に頼る認知判断行動パタンを形成するべきである。主は「だれでもわたしに従いたい者は、自分を否み、自分の魂を否みなさい」と言われた。まことに現代認知心理学のセオリーにも沿った言葉である。
■人は誰も欺かれている時には、自分が欺かれていることに気がつかないものである。それはしばしば自己主張と自己弁護によって特徴付けられている。人から何かを指摘されたとき、ムクムクと自己主張や弁護が出てくる時は要注意である。それはその指摘が図星をついている証拠である。人は真実である時には人から何を指摘されても、何らヒッカカリを感じない。人の言葉でヒッカカリを感じてしまうことは、その領域において何か自分で認めたくない部分、直視したくない部分があることを意味する。そこには自己欺瞞がある。人は様々な手法をもって、その部分をカヴァーしようとする。人は時に恐るべき自己欺瞞による、名優顔負けの演技もなし得る。これはテレビに出る犯罪を犯す人々を見るまでもなく、自分の周囲の人々や事件を見るだけで証明できる。否、最もよく分かるのは自分を見る時である。自分を欺くときには、実際に白いものも"赤く"見えるのである!赤いメガネをかけているからである。しかも自分がメガネをかけていることに気付いていない。これが事態を深刻にする根本問題である。黒澤はビジュアルに迫力あるシーンによってここを描き切った。クリスチャンとしては、イエス様から「この人はまことのイスラエル人です。この人にはうそがない」(ヨハネ1:47)と言っていただけることを願う。
■突然の通達であった:「今後はご自分のミニストリ―は外でしてください、あとはすべて私たちでやりますので、先生はすべてから降りてください。」今回の小生の周囲で起きたカナン教会における一件は、ある部分ですでに予想していたことであった。が、少し進展が早かった。私はラザロさんたちをあらゆる面で自立させたかった。しかしそれは教会側から見ると必ずしも「望むこと」ではなかったかも知れない。その裏に何が動いているかはすべて霊によって把握できていた。人の心の深く知るのは人の霊である(1コリント2:11)。残念なことは、この件に関わった人々の関係において安息が損なわれ、キリストの体にスプリット(亀裂)が生じたことである。声明文はこちら。
■私に対しても様々な評価がなされているようである。私はそれらに関わるつもりはない。言葉は自ら人の心を証明する。また今回の件に巻き込まれた兄姉方もご自分の霊で事態の本質をすべて把握されている。よって目に見える大きな混乱は回避された。現在の状態は各自がそれぞれ主の導きに従った結果として、今日あるを得ている。ただし一部には深く傷ついた方々もおられたことが残念である。残るラザロさんたちにおいても、あまりに早い事態の進展の中で抱いた「なぜ・・・?」という声を、率直に表明できないことがつらい。あるラザロさんに「行ってしまうんですか、もう来ないんですか。ぼくたちを何とかして下さい。」と問われた。私には言葉がなかった。彼らはそれをいつもどおり、ぐっと飲み込むしかないのである。彼らはそうやってこれまで生き延びてきた。私はその彼らの声にならない声に答えることができなかったことがつらい。すべてが私の手から離れた現在、ミッション・ラザロが人の功績や所有物になったりせず、主の御手の中で当初のビジョンのとおりに展開され成長することを祈るのみである。(2001.05.09)