議論することに思う−言葉の裏にあるもの− 通常、この種の話題で実りある議論をすることはできません。なぜなら、感情的反応が先走り、問題点を問題点として提出することすらできないのが、情緒性が優先する日本人の弱点であるからです。その意味でかなりハードコアなディスカッションでした。内容の一つひとつをご披露すると、これはあらたな反応を引き起こしますので、ここでは控えますが、客観性と専門的知識、そしてそれぞれの経験に基づいた楽しい議論でした。 ▼日本人は一般にディスカッションとかディベートが不得意ですが、その原因を探るときに、日本人のある精神病理によることが分かります。それは、かつて学生運動が華やかなりし頃のベストセラー、土居健郎著『甘えの構造』で示されたとおり、母系社会に特有の甘えの心理です。 すなわち、母性的愛情(これを私は"砂糖まぶしの愛"と言います)によって、自分の必要を言語化して訴えるまでもなく、母親の機転によって自動的かつ受身的に満たされる形で成長した日本人は、長じてからも他者との関係を構築する場合、そのパタンを相手に対して無意識的に期待します。つまり自分の何かを言語化するまでもなく、相手が以心伝心で理解してくれて、それを受け入れて満たしてくれるだろうとという期待(甘え)です。ところが自分の母親ならぬ他人はそれに対しては無頓着であったり、あるいは気づいていても、あえて満たしてくれることはまずまれでしょう。こうして自分の期待を裏切られることによって、容易に傷ついてしまうわけです。これが日本人のナイーヴさの原因です。 このような無意識的心理機制(メカニズム)は、成長する過程において、ある一定の刺激を受ける中において、大脳中枢神経系に条件付けされます。本人はほとんど意識しないままに、一定の無意識的な心理的プロセスが作動するのです。これを聖書では"肉(flesh)"と呼びます。 ▼よって議論する場合においても、その議論の対象を取り扱うよりも、まず自分の内的な必要を満たすこと、あるいは自分を守ることが優先されてしまい、対象に関する議論ではなくなり、結局自己主張に過ぎなくなります。ここで相手に対してその主張を受け入れ、認めて欲しいという、対母親的認知行動パタンが働いてしまうのです。よって自分の主張は、ある意味で自分の内的必要そのものを表現するものとなり、それを拒否されたり、充たしてもらえなかったりすることは、即自己を否定されたことになり、ただちに傷ついてしまいます。 いったんすれ違いが生じるならば、後はその裏切られた感情の処理のためのプロセスとなり、議論は永遠に平行線をたどります。こうして互いの的外れの議論の応酬合戦となり、後はどちらかが疲弊するまで続く消耗戦と化します。最近の一部の方々による天皇制の議論も、互いの立場の押し付け合いみたいな形となり、平行線のまま、実のあるディスカッションとは言えませんでした。その裏話なども今回知ることができましたが、結局上記の精神病理が働いていることを確認し得ました。 ▼私が人と話しをする場合、その人の表向きの発言に耳を傾けますが、その内容自体に注意を払うよりも、むしろその発言が出てくる原因、あるいはその言葉の土壌であるその人の精神状態を観察分析することを、ほとんど無意識に行っています。だからしばしば愛がない、冷たい、裁いているなどのお叱りを受けるのですが、多くの場合、外に出てくる言葉は隠されているものの数パーセントを表しているだけです。人は自分の真実をまず明らかにされることに対して抵抗するのがふつうです。しかし言葉の使い方、表情などから、内的状態を推測することができます。 カウンセリングの場面でも、人が表向き訴える必要は、実はその人の真の必要ではありません。ですから私はそのような相手の期待にはまず応えません(だから私はあまり評判がかんばしくありません)。これに1回でも応えると、再度の期待が生じてそれを充たす・・・の繰り返しとなり、一種の依存関係ができてしまいます。しかし、主イエスが「人は心にあることを口が語るものである」と言われたとおり、隠そうとしても言葉にはその人の何かかが表現されてしまいます。 ▼そこで議論するとき、自分の必要とか主張をいったんおろして、お互いの言葉の背後にある要因を考慮しながら進めるだけの余裕があれば、実のある大人のディスカッションも可能となります。このときは疲れることもなく、必ず新しい発見とか目からうろこが落ちる経験をすることができます。結局今回の結論は、あらゆる問題を分析することは、実は日本人を知ることであるということでした。つまり自分自身を知ることなのです。それと成長の必要性です。成長の度合いは批判に対する応答で分かります。これから一つひとつをどう料理するか、楽しい課題をいただくことができた有益な時間でした。(01.07.13) |