「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。
ここに徹底した神中心の視点が描かれている。神はある人を尊いことに用いる器として、またある人をつまらないことに用いる器として作る権利を持っている。これが神の主権である。私たち作られた者は、作った者に対して何を訴えることができるであろうか。徹底した神の主権と神中心の視点からの言葉である。しばしばクリスチャンあっても、上の映画のような視点から今回のような悲劇を見ることによって、神を告発するのである。
■最近よく言われる言葉に「あなたはわたしの目に高価で尊い」というものがある。イザヤ書の言葉であるが、これもしばしば勘違いするととんでもない人間中心主義に陥り、ニューエイジやヒューマニズムの台頭を許し、キリストの十字架を無効とすることになる。神がなぜ罪を犯した人間を救われたのか、なぜ神は私たちを愛して下さるのか、それは神が愛であり、義であるからに他ならない。それは私たちの属性や功績に一切よらないことなのである。キリストの十字架は、神の愛と義を証しているのであって、人間が高価で尊いことを証しているのではない。もし神が十字架を用意されなかったとしたら、神の愛が損なわれ、もしキリストが裁かれなかったとしたら、神の義が損なわれたからである。それは第一義的に神の証のためであったことを知るべきである。ここを外すならば、単なるヒューマニズムに陥り、さらにはニューエイジの侵入を許すことになる。
■この世において、なぜ諸々の悪の存在を神は許されるのか、私たちは詮索することがある。しかしその態度すら実は不遜であることを知るべきである。私たちの言葉は、ただ「分かりません。しかし神は愛であり義であることを知っています」であるべきである。そしてもうひとつ言えることは、それはすべて人の罪のゆえであって、神の責任ではないということである。それ以上に詮索することはむしろ人間の分をわきまえない、否、神の主権を侵すリスクがある。この意味でこのような悲劇に出会うときに私たちが取る態度はむしろ神を知らないこの世の人々とは一線を画したものであるべきである。そこでこのような事件に遭遇するときであるほど、その信仰の置き所が問われる。しかし神はただひとつの救いの道を用意して下さっていることを私たちは大胆に語るべきある。それが十字架である。この十字架におけるキリストと共なる「私の死と復活」こそが、私たちを真に神の御前に立つことができる者として下さるのである。この「私の死」をバイパスしたものはすべて偽りである。(01.09.14)