閉鎖社会の共同幻想に思う 私の著書『真理はあなたを自由にする−"ファクターX"の再発見』が刊行されました。本書は父性の不在と母性の病理による"やさしさの精神病理"が蔓延し、あらゆる事柄が"砂糖まぶし"あるいは"真綿くるみ"になっている現在の霊的状況に対して、ある意味でインパクトを与え、一部では波風を立てることでしょう。 今日多くの人々が求めるのはやさしい人間関係に、物事をやんわりと処理し、ややこしいことは言わずに、互いの意見や感情、そして"信仰"を尊重しあって、仲良く楽しい人間関係を育むことです。このような空気の中で人々が求める人物は、うるさいことを言わず、何でも受け入れてくれて、許してくれて、認めてくれる"包容力"のある人物像です。私はまさにこれとは正反対のキャラクターですから、今もこれからもまず人気が出ることはないでしょう。 ある掲示板でちょっとハードコアな私の投稿が契機となり、その掲示板におけるクリスチャンの発言や振る舞いを指弾した未信者の投稿をめぐって、喧々諤々のディスカッションがなされました。それまではきわめてやんごとなき雰囲気の中で、"クリスチャン的交わり"が展開していたようですが、クリスチャンの側からも真実を指摘する声が上がりました。 中でも言い得て妙であったのは「コスプレ・クリスチャン」と言う言葉でした。クリスチャン的教養と作法を身につけて、"交わりの場"でソツなく振舞う有様をきわめて鋭く指摘した言葉で、なるほどと感心してしまいました。その後、私も「イミテーション・ゴールド」と言う言葉を思い付きましたが、これは世代の違いを表しています(なにしろ私の原点は70年代にあって、山口百恵の引退と共に青春を終えたと思っていますから・・・)。 その未信者の声は真実を鋭く抉っており、なるほどとうなる部分が多くありました。彼女によるといろいろな教会を巡ったが、クリスチャンの"交わり"においてしばしば胡散臭さあるいは窮屈さを覚えており、それはちょうど映画『タイタニック』の社交サロンと同様であって、自分はローズと同様の居場所の無さと窒息感を覚えていたと言うものでした。しかし破天荒な生き方の、教養もなくその日暮しの貧民ジャックに出会うことにより、ローズが真の自由を知り、しかも彼が自分の代わりに死んだことにより、命が助かったばかりでなく、心も救われたということと、イエスの十字架の死を重ねていました。 私はこの映画を単なるヒューマニズムの観点からしか観ていなかったのですが、なるほどイエスと重なるわけで、こういう見方もできるのかと感心しました。彼女は、あるクリスチャンの深い霊的経験を証しする誠意ある言葉によって、真実を分かち合えたとして、クリスチャンとして生きていけると言う希望を見出したという言葉で終わりました。その最後の書き込みもとても霊的に意味深いもので、感銘を覚えるものでした。 クリスチャンになって、聖書の知識や教養や振舞い方を身に付けるにつれ、実は教会が社交サロン化し、真実を離れて、いつも同じメンバーと同じ内容について同じマナーで語り合って、互いにほめ合ってという、霊的いのちの窒息をもたらすあり方に陥ります。見掛けは上品で、争うこともなく、楽しげですが、それは何かつくろいであって、真実がないという印象を否めません。その中に真実を語ろうとするならば、必ず波風を立てることになります。 どういうわけか私はそのような役回りを買ってしまうことがよくあるのですが、その際、見かけは争いや葛藤があったにしても、むしろその方が真実であると感じています。心の中に一物をもったまま、外側の"一致"を守って何になるでしょう。心の真実と外なるあり方が分離することは、霊的いのちにとって致命傷です。この意味でこういった場面ではそれぞれの心の中にすでにあったものが露になるだけなのです。事件が起きたから、混乱するのではなく、すでに何かがあったからそれが現れただけなのです。 ちなみに精神分析学者の岸田秀氏は『官僚病の起源』という本の中で、日本の官僚組織がどうして現在のような状態であるのかについて、閉鎖社会における共同幻想によるとして、次の諸点をまとめています: @官僚組織は、本来、国のため国民のためのものであるにもかかわらず、自己目的化し、仲間うちの面子と利益を守るためにの自閉的共同体となっている。このような状態に陥る原因としては、国民が自分を治める者に対して、清廉・潔白・人格高潔であってほしいという幻想を官僚に投影するためであると、岸田氏は論じています。これを読んで私は日本の「官僚組織」という単語を日本の「キリスト教会」と置き換えると、まさにピッタリすることに驚いております。閉鎖社会における共同幻想によって結合されたいわゆるクリスチャンの"交わり"は、日本社会の縮図であると言えます。これは御霊によるひとつと言うよりは、日本人的心性に基づいた"一致"なのです。だから一度そこのプロトコル(作法)から外れると直ちに部外者扱いされることになります。 しかも自分の牧師、あるいは教団に対して投影する幻想は、日本国民が官僚に対して投影するそれとまったく同一であると言えます。これは自己の満たされないプライドを相手に投影して、相手において代償的にそれを満たしてもらおうとする心理機制であって、いわゆるアイドルはこれに乗っけられた存在です。しかしこの裏にあらゆる偽善が明るみに出されることなく隠蔽されています。 今後クリスチャン同士の間で、例えば今回のアメリカのテロや、あるいは日常の些細な事件が起きるごとに、それぞれの内にあるものが露になって、問題が起きてくる場面が増えることでしょう。それは各自が何を一番大事にし、何の上に自己のアイデンティティを置いているかが明らかにされるためです。自分の何かを建て上げようとしたり、すでに建て上げたものを守ろうとするならば、必ずそれは崩されることでしょう。つまり幻想は今後ますます崩されていきます。 自分から手を離し、ただキリストにあるアイデンティティとキリストにあって得た嗣業の上に安息するならば、何も壊されるものはありません。自分で守る必要がありませんから、楽です。真の解放と自由はまず自分を手放すことによって得られます。新著ではこのことを「ファクターX」と称していますが、評価は二分することでしょう。前者の人々にはうっとおしい言葉に満ちておりますが、後者の人々にはまさに福音、キリストにある真の自由を告げているからです。この意味で本書はリトマス試験紙となります。さてさて、これからどんな声が聞かれることでしょうか。(01.10.23) |