"日本人向け福音"の問題点

リバイバル新聞掲載予定記事(少し延期)



ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません(ガラテヤ1:7)

昨今の教界の流れに"日本人が受け入れ易い福音"あるいは"日本文化に文脈化された福音"なるものがある。いわく「これまでの福音は西欧的背景によるもので、日本人の心性と適合しないから、日本のクリスチャン人口は一、ニ%を超えない。よって、日本文化に根付く、日本人のキリスト教が必要である」、あるいは「聖書の母体であるヘブル文化の文脈で理解された福音を日本に根付かせよう」とするものである。別の側面では"問題を解決するための福音"、"自己啓発のための福音"などの耳障りの良いキャッチコピーを冠した"福音"がうたわれ、さらには親族に対する日本人の心性に配慮して、"死後の救い"の主張なども表立ってきた。このような議論が出る根は日本人特有の精神病理にあるが、これは稿を改めたい。

この議論において最も本質的なことは、福音とは何か、ということである。一方で「イエスはあなたの罪を負ってあなたの代わりに死んで下さった、だからイエスを信じれば天国に行ける」といった初歩的レベルに留まるべきではないし、また他方でヘブル文化を理解しなくては福音は理解できないものでもない(もちろんヘブル的背景の理解は福音理解を深くすることは事実であるが)。前にも書いたが、ユダヤ人の選びは機能的なものであり、本質的な選びは教会(エクレシア)である(注:ここで私は置換神学を述べてはいない。"置換"ではなく"はじめから"(エペソ一・4,9、三・9-11)であり、両者の選びの次元(平面)が異なることを言っている。)

一言で言って、福音とは神による人の取り扱いの配剤であって、ヘブル民族であろうと日本民族であろうと、肉体の解剖や生理・病理が同じであるように、精神病理さらに霊的病理は同一である。福音とはアダムの系統からキリストの系統への転換であり、それは新しいいのちのインプラントによる。アダムが神の息を吹き込まれて誕生したように(創世記二・7)、私たち(=教会)はキリストにより聖霊を吹き込まれて誕生した(ヨハネ二十・22)。その本質は古いいのちと新しいいのちの置き換えであり、これを実現することが十字架の本質的機能である(2001年12月19日号参照)。神の目には"アダム種族"と"キリスト種族"の二種類しかない。そこでこの霊的次元から見るならば"日本人が受け入れ易い福音"の追求は、一見もっともらしいが、巧妙な肉の罠となり得る。(注:アカウンタビリティ−福音の弁明−の追及に異議を唱えているのではない。第一ペテロ三・15,16参照。)

第一に、日本人であれ、西欧人であれ、肉なる者(創世記六・3)にとって福音の真理は本来好ましいものではない。十字架はアダムにある古い私たちを処理し(ローマ六・6)、また私たちの肉の処理を私たちに要求する(ガラテヤ五・24)。つまり肉にとってはつまづきとなり(ガラテヤ五・11)、私たちの肉は十字架を避けたがるものである(ガラテヤ六・12)。この意味で福音を語るときには、肉なる者は必ず抵抗を示す。また真理は自己を拒否することを要求し、御言葉は魂と霊を切り裂くものである(ヘブル四・12)。この相克は本質的なものであり、福音の"文脈化"や"説明"によって解決されるものではない。

第二に西欧諸国や韓国が"キリスト教徒"の数が三、四○%と言っても、その霊的内実が伴うかどうかは分からない。すなわち、単なる"キリスト教的文化"であるのか、真に肉において死を経た後のキリストのいのちの現れであるのか、これは決して統計的数字に表れるものではない。この意味で福音の本質は、文化とか習俗とは何らかかわりがなく、アダムにある古い私たちと肉の磔刑を経た後のキリストと共なる復活のいのちにあることを再度指摘したい。文化や民族性を福音と絡めることは、魂的次元と霊的次元を混同することによる。

今後の"ニッポン・キリスト教"のあり方は、この二つの次元を混同して本質を見失うならば、"文化によって左右される福音"、さらには昨今頻繁に観察される"あるがままの互いを尊重し合う福音"や"耳にやさしい気持ちの良い福音"などに陥る可能性が高い。これらは人の目に良く、麗しく、魅力的に見えるからである。しかしこれらは、神の主権に服し、神に仕えるどころか、むしろ十字架を人間のご都合に下ろしてしまい、自己あるいは肉、すなわち人に仕えるものに過ぎない(ガラテヤ一・10)。

パウロが明言するように、福音はただひとつしかない。究極は「自己か、キリストか」の二者択一である。"リバイバル"を起こすために福音に加工(妥協)がなされてはならないし、また社交サロン的砂糖まぶし(装飾)を施すべきでもない。私たちの委託(責任)は御言葉を語ることであり、それを用いて御霊ご自身が「罪と義と裁きについて証しされる」(ヨハネ十六・8)。よく聖会やイベントの動員数が誇られるが、そもそも"リバイバル"とは数で測るものなのか、その本質的定義をじっくりと再確認すべきであろう。キリストがご自分のいのちを賭して、その尊い血によって獲得した十字架のみわざである。これを人間的次元に引き下げてはならない。パン種によって外見だけ大きく綺麗に膨らんでも、霊的な実質・内実を伴わなければ無意味である(第一コリント五・7)。キリストと共なる"私の死"と霊的いのちの復活を外したものはすべてフェイク(偽造物)であることを再度訴えたい。

結局、本論点においても霊的領域の事象と魂的領域の事象の鋭い分離が必要となり(ヘブル四・12)、私たち自身の信仰と霊性とが問われている。今後の道を誤ることがないように、日本の霊的状況に主の主権による重い御手の介入があることを祈る。

  というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言っ
  てもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集
  め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです(2テモテ
  4:3,4)。


(02.06.15、06.18修正)