聖書はおいしい

(本稿は、「いのちのことば」6月号に掲載したものです。)

私は、8年ほど前から米国人宣教師のマンスさんに勧められて、愛妻涼子の作る朝食ができあがるまで聖書を毎日少しずつ食べることにした。職場において、コンピューターシステムのトラブル発生時の緊急対策をしたり、取引先の資金繰り対策でお客様とともに頭を悩ませるといった時間軸に余裕のない職務に就いている私にとって、毎朝静まる時を持ち、その日の聖書箇所を読み、そのときに自分に示されることをしっかりと受け止め、お祈りして神さまを賛美する必要がある。しかしこうした模範的な聖書通読スタイルは、今もって確立できていない。

マンス師は、聖書通読に「デイリー・ブレッド」という小冊子を用いていた。私はそのタイトルが大変気に入った。職業柄、昼食や夕食抜きとなることは日常茶飯事である。寸暇を見つけてお腹を満たすことができる立派な胃袋を神さまからいただいているのだからと、そんな気軽な気持ちでこの「デイリー・ブレッド」に取り組み始めたのだ。

今年の4月初旬、金融監督庁の検査への対応と人事異動が重なり、多忙を極めた。忙しいと心を亡くしかねず、ピンチとなる。さらには下痢と吐き気を伴う症状が重なった。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4・4)とあるが、そのときは食事も取れず、聖書(神のことば)も読めないという最悪の状態に陥った。妻の献身的な介抱と祈りの中で、娘の雅葉(まさは)がウイルス感染の恐れがあるからと薬局から買って来てくれた漢方薬を飲んで一息ついた。体調が戻ってパンを食し、聖書も食べられるようになると聖霊に満たされた確かな歩みをすることが可能になる。周囲の者が右往左往するような事態が発生して相談を持ちかけられたが、聖書の判断基準に従った落ち着いた対応をすることができた。

今回の体験から、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示3・20)というみことばを思い出した。人生航路の荒海の中にある私たちが、いつも心と身体の健康を保ち、心の扉を開いてイエスさまをお迎えして食事をともにするようにと、神さまが私たちに望んでおられると確信した。


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