人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である(箴言14章12節)。
残念ながら、この家族はそれぞれが自分の目で見てまっすぐに見える道を選択して行ったのです。そしてこの聖書箇所の警告通り家庭崩壊に至ったのです。
3. やり直しのできる人生
私たちの人生で、時間を戻してもう一度やり直すことができたら良いのにと思ったことはありませんか。実は、嫌なことを消しゴムで消すようなことができる方法があります。神様の愛の深さ、広さ、高さは計り知れません。神様は一人子イエス・キリストを十字架につけられ、その血潮によって私たちの罪を聖めてくださいました。イエス様の流された贖いの血潮によってすべての罪を消し去る、御破算にしていただくことができるのです。
反省の無いまま家を出たヤコブに対しても、神様の愛は降り注ぎ続けられます。ヤコブが疲れ果てて横になり、眠った時に、神様は夢の中でヤコブに「わたしはあなたとともにあり………あなたをこの地に連れ戻そう。」(創世記28章15節)と話しかけてくださいました。この時始めてヤコブは、個人的に深く神様を知りました。
その後ヤコブは、実に20年間も伯父のラバンの下で過ごすことになります。この間、主は常にヤコブとともにいてくださり、彼を大いに祝福してくださいました。そして、ラバンやラバンの息子たちからねたみをかうことになります。ねたみをともなう親族間の争い、これほどややこしいものはありません。しかし、父母・兄弟から離れて苦労してきたヤコブには、この間に神様との個人的な関係、すなわち神への祈りの生活が定着していたようです。主は、ヤコブの生まれたふるさとに帰るように示されました。
しかし20年前とは言っても母リベカと結託して父のイサクを騙したのですから、生まれ故郷の父の元に帰るには、父のイサクに対して謙遜な態度をとることが求められます。また何よりも、怒り心頭に達していた兄エサウと和解をすることが必要です。一度崩壊した家庭を修復して、これから神様に用いられる者となっていくためには、敵対する者に対してこちらから和解を求めていく謙遜さが必要でした。ヤコブは、「押しのける者」と言う意味です。自信満々で兄貴をも押しのける人生を送ってきましたが、和解を進めるためにはどうしてもヤコブが受けなければならない主の訓練が待っていたのです。
家路につくに際し、ヤコブは兄のエサウからの復讐を恐れ、人々や羊や牛やらくだを二つの陣営に分けました。自分の知恵を用いてエサウからの報復攻撃に備えリスク分散したのです。その後、主に自分の救いを祈り求めます。そしてヤコブは、兄エサウへの贈り物の家畜を選び、それを自分より先立たせて歩ませます。贈り物が届けられた後に自分が行くことにより、兄のエサウの気持ちもいくらかはなだめられると考えたのです。それからヤコブは一人だけあとに残って、創世記32節後半にある有名な神との格闘をします。それは、激しい祈りの戦いだったのです。この戦いで、ヤコブは「神に勝った」と言われています。すなわちエサウによって殺されることはないという確信を得たのです。その時、ヤコブのもものつがいの所がはずれて、「砕かれたヤコブ」に変身したのです。
4. エサウとヤコブの和解
神に祈り終わってヤコブが目を上げて見ると、兄のエサウが400人もの人を連れてきました。それを見てヤコブは、家族を三つのグループに分けますが、そのやり方にこれまでとは違う大きな変化を発見することができます。
今回の隊列編成においては、この最愛の妻ラケルとヨセフを一番後ろにしています。かつてヤコブは、ラバンに14年間も仕えることでその娘のラケルを妻に迎えました。最愛の妻ラケルとの間にはなかなか子どもに恵まれず、ようやく与えられた子がエジプトのヨセフ物語りで有名なヨセフでした。ヤコブは、自分の息子たちの誰よりもヨセフを愛していました。
そして何と、ヤコブ自身が真っ先に進んでいます。これまでのヤコブは、エサウの復讐を恐れて、自分自身は隊列の最後にいました。「何かあって、他の者が殺されたとしても自分は助かりたい。」という自己中心的な気持ちが強かったのです。しかし今度は「自分が傷ついたとしても他の者は逃げられるように。」という配慮が見られるのです。しかもヤコブは、兄エサウに対して7回も地に伏しておじぎをしています。これまでのヤコブは、兄のものまで自分のものにしてしまうという具合ですから、兄の前に頭を下げたことなど一度も無かったのではないでしょうか。
このようなヤコブの態度の変化が、周囲の者の心を動かさないはずはありません。兄のエサウの方からヤコブのもとに走って来て、これまで仲たがいをしていた二人の兄弟は、抱き合って涙するのです。エサウだけでも400人を引き連れていた中での出来事です。ですから、双子の兄弟が首に抱きついて口づけして泣くといった非常に感動的な場面になったのです。
5. 創造と崩壊〜和解の扉
こうしてヤコブが家を出てから実に20年後に家族の和解が行われたのです。和解ができたのは、何か奇跡が起こったからでしょうか?この箇所は、現代に生きる私たちに対してどのようなメッセージを送っているのでしょうか。
和解の扉は、ヤコブが祈りの中で自分が砕かれて変えられことにありました。ヤコブ自身が主の前で祈り、主が無限に聖い方であり、無限の愛を持つ方であることと、一方で、被創造物である私たち人間が限りなくどこまでも自分勝手で、罪深い者であることに心の底から気が付いたのです。これによって彼の人間性が、神様の手によって変えられて和解の扉が開かれたのです。
ヤコブの例を見ましても、私たちが人間関係のトラブルに見舞われたときには、私たちの中にある自己中心の心を押さえることが、新たな望ましい人間関係の創造をもたらす出発点のようです。私たちに必要なことは、先ず主の前に静まり、砕かれ、謙遜な者とさせていただくことです。そうすれば、人の前でも真に謙遜な者となることができるのです。このようにして、私たちの世界に必ず付きまとう難しい人間関係が改善されていくのです。
最近発生した大きな事件として、雪印乳業事件やそごう倒産があります。その際の、それぞれの企業のトップがとった対応について皆さんはどのようにお感じになっていますか。彼らは、消費者との和解を自ら求める必要がありました。しかしマスコミで報じられているとおり、世間の皆さんの納得をいただけなかったのです。どうしてでしょうか?ヤコブの和解を求める姿勢と比べて彼らのどこに問題があったのでしょうか。
先日、南北朝鮮の和解に向かって歴史的な第一歩が踏み出されました。皆さんご存知の通り、韓国の金大中大統領自らが先頭に立って北朝鮮の平譲を訪問しました。この金大統領の姿勢に対し世界中の人々が賞賛を与えました。この間の金大統領の言動にこの砕かれたヤコブと重なり合うものがありませんか。
どうも理屈っぽくて分かり難いとおっしゃる方がおられると思いますので、ある小学生の作文を紹介させていただいてもう少し説明を続けてみましょう。
「うちの家はみんなが悪い」
きょう私が学校から帰ると、お母さんが「お兄ちゃんの机を拭いていて金魚蜂を落として割ってしまった。もっと気を付ければ良かったのに、お母さんが悪かった」と言いました。するとお兄ちゃんは「僕が端っこに置いておいたから、僕が悪かった」って言っていました。
でも私は思い出しました。きのうお兄ちゃんが端っこに置いたとき私は「危ないな」って思ったのにそれを言わなかったから、私が悪かったと言いました。
夜、帰ってきてそれを聞いていたお父さんは「いや、お父さんが金魚鉢を買うとき、丸い方でなく四角い方にすれば良かったなあ。お父さんが悪かった」と言いました。そしてみんなが笑いました。
うちはいつもこうなんです。うちはいつもみんなが悪いのです。
ルカの福音書第6章31節には、このような記述があります。
自分にしてもらいたと望むとおり、人にもそのようにしなさい(ルカ6章31節)。
この家族は、この聖書箇所の「自分にしてもらいたと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」(ルカ6章31節)と言う精神に満たされています。我が家ではこの作文を読んで「なんてすばらしい家族なのだろう、こんな家族を目標にしよう。」と決めました。
ところがその翌日のことです。娘の雅葉が浦和明の星女子高等学校の米国短期留学に出かけるので、準備の整ったスーツケースを車に積み込んでいたときのことです。私が、玄関から駐車場にスーツケースを運び出す際、スーツケースの角で玄関脇の鉢植えをひっくり返してしまいました。鉢を壊さなかったものの、中の土が一面に散乱してしまいました。
すかさず妻の涼子は私に「いつもあなたは周囲のことに気が付かないで不注意なのだから。」と小言を言いました。私は反撃して「あの作文を読んで、この家族関係は羨ましいな、とか見習いたいな、と言っても、実践するのは難しいね。」と嫌ごとを言いました。
すると娘の雅葉は「以前私が、ランドセルをぶつけて玄関の植木鉢を壊したとき、『こんなところに置いたママが悪かった』と言ってくれたわ。自分が怒られると思っていたので私はびっくりしたの。」とフォローしていました。
どうやらキリストの香りを放つクリスチャン夫婦を目指す私たちは、及第点をいただけないようです。まだ洗礼を受けていない娘の雅葉の方が、神様の御心をしっかり抱いているようです。我が家の状況はこんな所ですが、皆さんのお宅では如何ですか。我が家のキリストの香りを放つ家族形成は、こんな状況で試行錯誤の連続です。
6. 崩壊を回避する方法
家庭崩壊と言えば、昨今の学級崩壊についてもお話しないわけにはいきません。最近不登校の子どもが増えています。親が「学校に行かなければ駄目。学校に行かない子は駄目人間。」と言ってしまったらとんでもない結果を招きかねません。そもそも不登校症を示している子どもは、何かで苦しんでいるのです。苦しい思いをする学校に「とにかく行け。行かなきゃ駄目。」と言われれば、家にいるのも親といるのも苦しくなります。学校も苦しい、家でも苦しいとなれば、この子はどうなるのでしょう。家出、犯罪、自殺など、とり返しのつかないことになるかも知れません。不登校の理由は、先生や周りの友達から馬鹿にされる、いじめられる、勉強についていけない、興味が湧かない、面白くないと言うことが原因なのです。
親がこういう子どもの気持ちを理解しないで、ただ「勉強しなさい。」「偏差値が低いと良い学校に行けないよ。良い学校に行かれないと一生苦労するよ。」「お父さんが勉強できなかったからお父さんのようにはならないでね。」と言って子どもを追いやってしまったり、挙げ句の果ては、「お父さんと結婚して後悔しているのよ。」などと言ったら最悪です。
まず、「どうしたの。何が嫌なの。」と子どもの気持ちを受け止めなければなりません。そして、「私たち人間には、成績や偏差値よりも大切なものがあるのよ。」「結果より努力が大切。」と励まし、「いつも正直なこと、感謝されること、それが一番よ。」「お父さんは立派。お母さんは尊敬するお父さんと結婚して幸せよ。」と言った風に話しかけてください。もしお母さんからこのように言われたら、その子は「立派なお父さんとお母さんを持って、僕は幸せだ。」と思い、大人になることや将来に希望を持てるのです。
ここでは、子どもの不登校を親のせいだけにしてお話してみました。ここで申しあげたいことは、どんな問題も相手が悪いと考えてしまったら解決しないので、自分の側に何か問題があるのではないかと謙遜な気持ちになって考えてみませんか、と言うことなのです。学校が悪い、先生が悪い、友達が悪い、夫あるいは妻が悪いでは、問題は解決しません。このようにしてどんな問題も、原因は「自分なのだ」と考えれば必ず解決の可能性が生まれて来ます。
我が家の例でお話しました通り、目指すべき目標を定めて理屈では分かったような気になっても、そう簡単に私たちの思考回路を変えることはできません。しかし家族で話し合って、望ましい姿に向かう努力をし続けることが大切なのです。なるほどと頭で理解しても、やはり実現は無理と、頭で否定してしまったら、問題は絶対に解決しません。私たちの人生は変わらないのです。
「姑が意地悪。料理が下手、子育てに問題があるといやみを言われる。」といった話を聞くことがあります。そうした場合は「それは姑が意地悪なのですか、事実なのですか。」と質問させていただくことにしています。そのときにもし、「姑は意地悪なのです。」と答えが返ってくるようだと問題は解決しません。果たして問題の無い幸せな人は、意地悪をするでしょうか?そう考えますと、もし姑が意地悪をするのであれば、その姑は何か問題を抱えているということになります。姑が問題を抱えているとすれば、その原因として思い当たることが嫁の自分には無いのでしょうか。
我が家の例でお話してみましょう。私は、一人息子のカズ君と言われて大切に育てられました。今でも実家に帰ると母が私のことを「かずおさん」と呼ぶので、娘の雅葉が「おばあちゃんは継母なの?」と言って不思議そうな顔をしています。もし私の母が、不幸せで意地悪だとしたら、一人息子を奪って不幸せにさせたのは、我が最愛の妻涼子だと、こんな風に考えられます。物事をこのように相手の立場から考えてみると、ちょっとこわいことになりますね。我が家では幸いなことに嫁姑の関係がうまく行っているそうです。もっともこれは、妻の涼子の話なのですが。
夫のギャンブル好きや大酒飲みや浮気。これらも大変な問題です。何故こうしたものに、男の人はのめり込んでいくのでしょうか。今日は皆さんに憎まれるのを覚悟して、敢えて男どもの弁護役になってみましょう。男は家を出ると7人の敵がいると言われます。男は仕事で辛い思いをしているのです。職場で辛い思いをしていれば、本来一刻も早く家に帰りたいのです。しかし、男が家にも帰らないなら、その人にとって家に帰ることは楽しいことなのでしょうか。
仕事と同様で、家に帰ることが辛いことになっているのではないでしょうか。場合によっては、仕事以上に辛い思いをしていることはないのでしょうか。その場合、家を辛い所としているのは誰なのでしょうか。
「こんな夫と暮らすのは嫌。私は被害者だ。」と言っている奥様の方が、実は加害者だったと言うことはありませんか。夫婦円満のコツは二人が話し合うことです。結婚前を思い出してください。しかし結婚した途端に話が無くなってしまうのです。本当ですか?そんなはずはありません。正確に申しあげれば、話が無くなるのではなくて、男と女の性格や興味のあり方の違いが表面化して、お互いの話題に興味を持てなくなってしまうのです。
私は、信仰を持つまでは仕事と自分が一番、二番は自分の趣味、三番に妻や家族のこと、神様は無しでした。一般に私たち人間は、自分が興味を持っていることについて話したいものです。家に帰った途端、妻からPTAの話や、近所の出来事を聞かされると、疲れて帰った身体と頭に興味を持っていない話が重なるので本当に辛くて苦しい思いをするのです。
多くのサラリーマンが赤提灯で酒を飲みながらする話しは、職場の上司の悪口や、ゴルフ、野球、釣りなどの趣味の話が一般的です。勿論信仰を持った夫婦が、愛し合い夢を語り合う姿が理想なのです。夫婦二人が同じ信仰を持つまでは、「妻がバーのマダムに負けないくらいに聞き上手になって、夫の心を解放させてあげるのが夫婦円満のコツ。」と書かれている本を目にしたことがあります。果たして皆さんはどのようにお考えになりますか?
7. 終わりに
イサクとリベカに与えられたエサウとヤコブの双子について、その家族の崩壊と和解の話から大分横道にそれてしまいました。私たちはいつでも、人間関係に悩み、喜んだり悲しんだりしながら日々歩んでいきます。ヤコブは、絶体絶命のときに神に祈り、神と格闘し、あきらめずに自分を祝福してくださるように神様に祈った人です。それを神様は喜ばれました。今日悩みを抱えていない方は一人もいません。その悩みの解決を神様に祈り求め、少し見方を変えてみませんか?神様は本当に愛に富み、恵み豊かな方なのです。
最後に皆さんで一箇所聖書を読んで神様の祝福を祈りましょう。新約聖書のコリント人への手紙U第12章9節です。
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう(Uコリント12章9節)。