すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません(Tコリント10章23節)
2.過ぎたるは、及ばざるが如し
みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい(テモテ4章2節)
の箇所に、勇気付けられ過ぎて、所構わず、やり方構わずにこのとおり行って沢山の失敗をしました。
特に、家庭においては、アーサー・ホーランド師のメッセージテープや賛美のCDを朝早くから目覚まし代わりに流してみたり、何時でも何処でも妻や娘に聖書を開かせたり、お祈りを強要したりしていました。反省しています。
何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい(コロサイ3章23節)
とは真反対の行動です。福音を伝える力を神さまにお委ねせず自分の力でやろうとした失敗例です。
我が家は、夫たる私が最初にイエスさまにお目にかかったので、ついつい力みます。それでも、4年後、妻の涼子も信仰告白し受洗するに至りました。
主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます(使徒16章31節)
も、神さまの素晴らしい約束のことばです。
3.涼子の討ち入り
1997年11月のこと、求道中の妻に赤穂浪士ならぬ『涼子の討ち入り』を仕掛けられました。
当時私は、日曜日の朝6時から教会で早朝祈祷をしていました。その日の日曜礼拝後は、悩める友人の話を聞いていたので、家に帰ったのは午後7時半過ぎになりました。
家の明かりがすべて消えていて、玄関の鍵がかけられドアチェーンまでしてありました。妻の心は冷凍庫の様子。チャイムを鳴らして叫んでも何の返事もありません。ドアをたたき壊したい衝動に駆られました。以前の私ならドアをたたき壊して中に押し入り、逆に妻を責め倒していたと思います。
でも、そのときイエスさまが教えてくれました。「仕事で疲れている夫を少しでも家庭で休ませたい。」と願う妻の優しさを。
「神様が一番、二番は妻と家庭、妻の今の気持ちが大切だ。」と思えました。
そうしたら、不思議と無性にお腹もすき、ラーメンでも食べて来ようという気になりました。車で出かけると、妻が余計不安になると思い、歩いて出かけました。イエスさまに「御心をお示しください。」と散歩しながらお祈りし、家々の明かりを見た時、すべてはイエスさまが整え解決してくださることを確信していました。
またの機会にさせていただきますが、この出来事の中で、我が最愛の妻、涼子に対しても、初めてイエスさまが介在されたようです。