正しい日韓関係 −日本の古代史を検証する−

尾田 正毅

【編者注】いわゆる学校で教えられる歴史(文部省検定済みの歴史)では真実が歪められております。昨今の首相による「神の国」発言なども、依然として真実が覆われており、その過去を正しく評価されることがないままに情緒的要因によって起きている現象です。かつて旧西ドイツ元大統領ヴァイツゼッカ−は「過去に目を閉ざす者は現在に対しても盲目となる」と喝破しましたが、現在の日本はまさにこの言葉どおりの有様を呈しております。果たしていわゆる国家神道や現人神天皇などが、キリスト教国の国家体制を真似たものであることを学校歴史は教えているでしょうか。尾田氏の論考は現在の日本にまさに必要な歴史評価の一つの視点に問題提示するものです。



同氏のメールより

私は日本の歴史に多大な興味を覚えています。
しかし、この国の歴史は『国を私物化』した人達の歴史であって、
なかなか客観的な歴史の認識は確立できておりません。


特にお隣りの韓国との関係は何千年に亘って歪んだままです。
これほどに不幸な事はありません。この韓国と正しい関係が
樹立されない限り、日本の繁栄はおぼつかないと思います。
個人的な歴史認識を纏めてみました。


あなたの隣り人のために祈りなさい。
隣り人は一番厄介な人達です。
それを神様は敢えて、隣り人を一番大切にしなさいといわれます。
その奥義は本当に深くて広いと思います。




最近数多くの古代の遺跡や古墳が発見され、考古学的な解明を通して、日本国の成り立ちが議論されています。それまで、私達が中学や高校の歴史の時間に学んできた『日本の古代史』には致命的とも言えるような大きな誤りがあることが判明しています。ですから、文部省は大学入学試験の出題範囲から『平安時代以前の古代史』を削除することに決定しています。平安京に都を移したのは西暦794年で、垣武天皇は126人中、丁度中ほどの60代の天皇です。ですから、彼以前の59人は(?)ということです。

9世紀後半に都が平安京に移される以前の歴史は、これまでの認識とは全く様相を異にしており、統一見解が出せないからです。我が国の歴史はこれまで『皇国史観』を貫いて来ました。文部省もこれに合致しないものは極力排除し、今日至っています。

しかし、『皇国史観』から離れて我が国の歴史を見ない限り、本当の姿は見えて来ません。ですから、私達は今でもこの国がどのような成り立ちをしてきたのかという『真実』を知る権利を奪われたままなのです。

私達が歴史や国語の時間に習った事柄には、未だに多くの誤りが含まれているというのです。第二次大戦直後に多くの教科書は墨で塗りつぶされました。しかし、今なお歴史は多くの謎に包まれているのです。一番大きな誤りは歴史書であるべき『万葉集』を『牧歌的な恋の歌集』であると解釈してしまったことです。そして、当時の日本に最も大きな影響を与えていたと思われる『古代朝鮮語』で解釈しないで、敢えて『万葉ガナ』という別の読み方を編み出して、意味を意識的に取り違えている点です。これは多分に恣意的であり、確信犯ともいえるのです。

数多くの古墳が日本各地で発掘され、その中には規模が著しく大きなものがいくつもあります。これは、当時『大和朝廷』と拮抗するような強大な勢力が日本各地に存在していたことになり、天皇の絶対的支配が確立していたという日本史は大きく覆る事になります。しかも、その年代が6-7世紀にまで及んでいるのです。奈良時代の天皇は、唯一の権力者ではなく、強力名指導者の一人に過ぎなかったのです。

『大和朝廷』程度の集落は、当時の日本の各地にいくらもあったというわけです。これは日本の歴史学者にとっては大変なショックだったと思います。奈良時代の後期には各地で風土記が編纂され、大国主命(おおくにぬしのみこと)の『出雲の国譲り』のような民話が各地にたくさん残されています。

これらの事実を総合すると、朝鮮半島から渡って来た帰化人によって統一されたと解釈するのが妥当なところでしょう。その時期も意外と後期で、8世紀になります。この時期、中国では『唐』という世界的大帝国が建国され、その強大な支配力が全アジア各地に及んでいます。この帝国の支配下にあった勢力によって日本国が統一されたと解釈するのが無理のない点だと思われます。

それを証明するのが『万葉集』です。巻一の一は雄略天皇という方の歌で、『素敵な花篭を抱えた可愛いお嬢さん。あなたのお名前は何とおっしゃるの。私はこの国を支配する王様なのだよ。』と解釈されると学びました。天皇がピクニックに出かけ、野原で可愛い少女に恋をした歌であると学びました。

『古代の日本人はかくもおおらかに恋を楽しむ、情緒豊かな国民だった。』と教わりませんでしたか。この背景には日本は天皇を中心とした選ばれた国民であるという、一種の選民意識を植え付けるために無理な解釈を施しています。

しかし、この歌集は決して自由恋愛を謳歌するものではなかったという強力な説もあります。雄略天皇は『鹿狩り』に事寄せてライバル達を次々と暗殺し、大変な暴君であったことが判明しています。この歌集は、もっと血なまぐさい権力抗争の末に国家統一を成し遂げた当時の権力者達の『勝利宣言』であり、『就任演説』と読み取れるというのです。

少なくとも、時の権力者なら誰でも先ず自分の地位の正当性を公に宣言する筈です。ですから、歴史書の冒頭が就任演説であっても極く自然な記述だと思われます。血なまぐさい権力闘争をする当時の豪族達が自由恋愛に明け暮れると言う解釈は、無理があります。

多分、歴史の真実が明らかにされると、不利益を被る人達が出てきます。この国を今迄私物化して来た『闇の主権者』といわれる人達です。彼らにとっては今でも日本国は天皇を中心とした『神の国』であって欲しいのです。そうでないと彼らの権威は直ちに失墜してしまうのです。彼らが必死になって天皇制を守ろうとするのは自己保身のためなのです。

それは単に政治家や実業界の指導者だけに限りません。学問の世界も根底がら揺り動かされ、全ての権威が失墜し兼ねないのです。最初の解釈を間違えたため、『和歌』はその後も恋を謳歌するものと解釈されて、今日に至っております。誰もそのことに異論を差し挟む事もしません。

私達は未だに聖書創世記第一章の冒頭の部分にいるのです。

混沌としており、辺りを闇が支配していた。神はいわれた。光あれ。すると、光があった。

私達日本人の歴史に対する認識は混沌としており、闇の中を歩き続けているのです。日本に夜明けはまだ来てはいないのです。『夜明け前』なのです。光であるイエスキリストのところに来ない限り、誰も本当の夜明けを味わう事はないのです。

歴史解釈のみならず、文化においても間違ったものをそのまま受け入れているのです。これは本当に不幸な事といわざるをえません。最初のボタンを掛け間違えると、どこまでいっても誤りは訂正される事はないのです。彼らは『得意満面』に振る舞ってますが、『裸の王様』なのです。誰かがそのことを教えてやらなくてはいけません。それの出来るのは誰ですか? 真理の御霊である聖霊をこの身に帯びているクリスチャンだけであり、彼らの責任なのです。それほど私達に課せられた責任は大きいのです。



mbgy_a05.gif