中国における仏教の歴史
はじめに
私達日本人が自分達の歴史の真実を知りたいと思えば、中国の歴史を辿っていくと大変参考になる。我が国において『仏教』は隠然とした勢力を持っており、これに対して異議を唱える事は事実上不可能に近い。しかし、仏教は時代とともに多の宗教を取り入れ融合し、現在に至っている。
多くの日本人は心の中では『おかしい』と思っていても、はっきりと口に出せない雰囲気がある。信条を口に出す者も少ない。そこで、間違った宗教や信条がそのまま居座り続けることになる。その点、中国では多くの宗教が林立し、栄枯盛衰を繰り返している。仏教も例外ではない。
中国における仏教の盛衰を見ていると、日本人の宗教観のどこが間違っているのかよくわかる。これからはクリスチャンの歴史学者が日本においてももっと沢山出て欲しいと思っています。日本の数多くの宗教をイエスキリストの光に照らして吟味すべき時なのです。
1.仏教の導入から唐時代における全盛期
仏教が国際化していく景気となったのはアレキサンダー大王のインド遠征による東西の文化交流が上げられる。いわゆる『ガンダーラ文化』である。これによって、ギリシャ彫刻の影響を受け、多くの仏像が作られた。中国へ大量の仏典を持ち込んだのは『僧の玄奘』である。
このように中国における仏教も最初は経典を読み、哲学的思索に耽る事に終始していた。しかし、6世紀に入ると『密教』と言う新しい一派が興こされる。いわゆる『新興宗教』である。これは従来の仏教が読経と思索と言った哲学的な真理の探求とは大きく違っている。個人的な利益の追求が主眼とされ、『加持祈祷』『鎮魂国家』を旨とした。
一時は大変な流行を見ている。唐の都『長安』が最盛期を迎える8世紀には密教の寺院も数多く建てられている。特徴は、時の権力者に積極的に接近し、政治権力と深く結び付いていく点である。
2.唐末期国外追放
しかし、唐末期(西暦851年)、中国で生れた道教と儒教以外の宗教は全て国外追放されている。特に対象となったのが『景教』、『密教』、『妖教』である。現代風に訳すと、『キリスト教』、『仏教』、『拝火教』である。ところが、唐の長安に入り込んでいたこれらの宗教は混然一帯となっていた。
日本から遣唐使が送られ、当時の世界の宗教を学ぶ機会となった。彼らは当時の世界的な宗教をエッセンスとして吸収する事ができた。空海が日本に持ち帰った『密教』は仏教以外の宗教の儀式教理を大胆に取り入れている。それは現代にも『大文字焼き』や数々の火にまつわる儀式として取り入れられている。彼の起した『真言宗』は密教だけに止まらず、他の二つの宗教をも取り込んだ形で成立している。
中国では、これによって仏教は以後衰退の一途を辿り、合わせて国力も衰えていく。時は唐から宋へと移り、混乱の時代を迎える事になる。この間、中国由来の儒教、道教は手厚い保護を受けるが、民衆を救済するものではなかった。特に道教は山に篭り、隠遁生活をしながら真理を探究する生活を理想としており、人々の現実に殆ど寄与してはいない。
当時の仏教はこのように中国からは姿を消したが、密教だけはヒマラヤとモンゴル高原に居を移し、現在に至るまで命脈を保っている。
3.新しい仏教としての禅修業
はなはだ個人的で、恣意的な解釈を生み出してきた密教に変わって禅宗が興る。これは座禅を組み、個人的な悟りを得ることを修業も目的とし、社会的な接触を禁じている。密教が『鎮魂国家』を標榜し、権力者と積極的に接触を深めていったのとは趣と異にしている。
中国では仏教は直接政治や経済の表舞台から姿を消す事になる。一方、ヒマラヤの奥地やモンゴル高原に流れていった密教は政教一致で権力の座と結び付いて隠然たる勢力を築き上げる事に成功している。同じ密教の流れを汲む『真言宗』を日本に起した空海は『天皇はお釈迦様の生まれ変わりである』という説を唱え、国家権力を擁護する立場を貫いている。
不思議な事に密教の勢力圏にある地域では、キリスト教は一向に勢力が拡大していない。それは唐の長安から国外追放になった『キリスト教』『仏教』『拝火教』が混然一帯となって流れていったからであろう。1549年に鹿児島に上陸したF. ザビエルは最初『イエスキリスト』を『大日様』と訳した。ところが、日本には既に大日様は存在していた。真言宗では『大日如来』は他の仏より一段高い所にいちしている、中心的な仏様だったのである。そこで、『天主様』と言い換えて伝道を始めたいきさつが記録されている。
4.アジア社会における宗教分布図
中国では現在開放経済の波に乗って、人々も再びキリスト教に帰依する人々が増えている。非公式だが、その数8,000万人とも一億人ともいわれている。韓国1,000万人、中国8,000万人、香港 300万人、シンガポール 150万人といわれている。
このように中国人の中にクリスチャンが多いのには理由がある。中国がアヘン戦争によって、欧米列強の植民地支配に曝されるキッカケとなった。 この時期、中国では『太平天国』という思想が国中に広がっていく。一種の宗教運動で、教祖は洪秀全というクスチャンだった。 一種のリバイバル運動は瞬く間に人々の心を捕らえ、一時は国土の約半分が彼の支配下に入るほどだった。しかし、当時の清王朝は強烈な弾圧に出る。クリスチャンは迫害によって命を失い、国外に逃亡した者は東南アジアに流れていく。
彼らはその後、『華僑』として商売の道で生きていく事になる。現在、我々がアジアで会う『華僑』にクリスチャンが多いのはこのような背景に起因している。多くの華僑達は英語、中国語と現地の言葉に精通する国際ビジネスマンである。 『華僑』は『オリエンタル、ジュー』(東洋的ユダヤ人)と呼ばれているのは、成り立ちから見てもなるほどと肯ける。 彼らが国際性を失わず、しかも自らの中国人としての独自性を維持しているのはキリスト教信仰と無縁ではない。