イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられた時、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた・・・イエスは言われた・・・「よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」(マルコ14:3−9)。
12人の弟子たちは、一人残らず、それを「むだにする」ことだと考えました。・・・しかし、もし主がそれに値する方であれば、それがどうして浪費と言えるでしょうか。主は、そのように仕えられるにふさわしい方です。主は、私をご自身の囚人にさせるのにふさわしい方です。主は、わたしが彼のためにのみ生きるにふさわしい価値を持つお方です。主は、私たちのすべてを受けるにふさわしいお方です。・・・ひとたびわたしたちの目が主イエスの真の価値に目覚めたならば、主に対して良すぎるというものは、何一つとしてなくなってくるのです。
もちろん、「最少の労力で最大の効果を挙げよ」という態度は、キリスト者の間にも一般的なものであることを、私たちは知っています。しかしここではそういうことが問題であるのではなく、もっと深い所に問題があるのです。
福音の働きの秘訣は何なのでしょうか。それは明らかに次の点にあります。すなわち、ベタニヤでマリヤの行いをほめられることによって、主はすべての奉仕の基礎として、一つのことを制定されたのです。それは、あなたの全所有、あなたそのものを主に注ぐということです。そして、もしそのことが主のあなたに課せられたすべてであるなら、それで十分ではありませんか。「貧しい人々」を援助するか否かの問題は、第一義的なことではありません。第一の問題は、主の御心が満たされたかどうかということなのです。
まず主を満足させる時に、必ず私たちにも満足が訪れるのです。しかし、私たちが主に対して自分自身を「むだ」にしなければ、主は決して満足なさらないことを、忘れてはなりません。・・・今私たちが、物質的な意味での油ではなく、私たちの心から出る尊いものをもって主に油を注ぐことは、主にとってまことに貴重なことなのです。
すると香油のかおりが家にいっぱいになった(ヨハネ12:3)。
あなたが真に苦しみを味わった人−主と共にあって自らの限界に行き詰まる経験を主と共に通り、神に「用いられる」ために、自由の身になろうとする代わりに、喜んで主の「囚人」となり、ただ主にのみ満足を発見することを学んだ人−に出会う時にはいつでも、すぐさまあなたは何ものかに気づきます。その時、直ちにあなたの霊的感覚は、キリストの芳香を感じます。何ものかが砕かれ、その人の生涯において何ものかが破れたのです。そのためあなたは香りを感知するのです。
しかし愛する友よ、主イエスの足下においてあらゆるものを、しかり最も貴重なものでさえも砕いていしまわなければ、あなたは神についてこのような印象を他の人々に与えることはできないのです。・・・そのような生涯が、人々に感化を与えるのです。そしてその感化は、人々の心の中に渇きを生じさせ、その渇きは神の啓示によって、キリストにある満ちあふれたいのちに入る所まで追求していこうとの意欲を、人々に起させるのです。
キリストのかおりを放ち、他の人の生涯に欠乏感を起させ、彼らをして主を知るために行動を起させるためには、進んで明け渡すこと、および一切のものを主に注ぐということがなされなければなりません。・・・ああ、自らがむだになることの祝福よ!主のためにむだになることは、祝福されたことです(注)。
(注)若き日にこう語った彼は50歳にして、キリストのゆえに、中国共産党によって強制収容所に幽閉され、70歳にして、キリストのゆえに、トラクターの上でボロぞうきんのように死んだ(→「ウォッチマン・ニーの最期」参照)。
■出典:「キリスト者の標準」、ウォッチマン・ニー/斉藤 一訳、いのちのことば社、pp.303-325(抜粋)