神の愛に満たされたい時に
私は絶えず愛によって支配されてきました。それ以外のことには関心はなく、自分が失われるか救われるかについても、心を煩わされることはありませんでした。私の行動のすべての目的は、
神を愛することであり、それで十分でした。神を愛するためなら、
1本のわらを地面から拾い上げることさえ喜びでした。私は純粋に、ただ神を求めました。ほかには何も、神の賜物さえも求めませんでした。
このような思いでいた私に神は、恵みの賜物を無限に賜りました。
私の思いはいつも神とともにあり、何か他の出来事や誘惑が生じる場合にも、それを感じとり、神はいつでもすぐに助けて下さるという今までの経験から、時にはそのままにしておいて、いざという時に神の助けを求めると、たちどころに妨げは取り去られる―そういうところまで達しました。同様な経験から、この世の取引をしなければならない時にも、前もって心配せず、行動を起こす時になってみると、その折になすべきことが鏡にはっきり映るように神によって示されるのです。私はなし終えた仕事、今やっている仕事にも心を囚われません。食卓から立つと、もう何を食べたか忘れてしまいます
。淡々として何事をなすにも神への愛のためになすのです。なしたことについて神が導きを与えてくださったことを感謝しつつ、また、数え切れぬほどのいろいろのことをなしますが、
すべてのことについてまったく単純に、神のうるわしい御臨在の中に常に堅く保たれてるいる態度でいたします。
外部の仕事をしている時には、神を思うことを妨げられてしまうこともあります
。けれども神からの新鮮な思いが私の魂をおおい、神の臨在の烈しさに私の魂は熱く燃やされ、大声で叫び歌い、舞い踊りたくなるほどです。私は祈りと学びのために密室に静まっている時よりも、かえって普通の仕事をしている時の方が、もっと強く神との結びつきを感じます。
もしも少しでも神の臨在からはなれることがあると、神は直ちに私の魂にそのことを気づかせ、再び呼び戻してくださるのです。それはしばしば日常の仕事の最中に経験することでした。
こういう内なる声に対して、忠実に応答しています。そして直ちに自分の心を神に向け、このような愛の出会いにふさわしい、愛とやさしさに満ちた、眼差しと言葉とによって答えます。たとえば、「私の神よ、私はここにおります。主よ、私はまったくあなたのものです。私をあなたのみ心にかなうものとしてください。」と言って。
すると愛なる神は、このわずかな言葉に満足され、再び私の魂の中心に住まい、安息なされるのが、ほんとうに感じられるように思われるのです。
自分の中にこのような宝庫があることを発見し、絶えず安息と満足をもって私は喜んでいるのです。私はもはやこの宝庫を不安を持ちながら探し求めるのではなく、
それはすでに私に対して開かれており、私が望むものを自由に取り出せる状態にあるのです。
■ブラザー・ローレンス:『敬虔な生涯―普段の生活の中におられる神―』(CLC出版)、抜粋