十字架を負うべき時に
あなたは労するために生まれながら、なぜ休息を望むのか(ヨブ
7:1)。慰めよりもむしろ忍耐を志し、喜びよりもむしろ十字架を負うことを志しなさい(ルカ14:27)。世俗の人も、もし常に魂の慰めと喜びとを受けることができるとすれば、喜んでこれを受けないことがあろうか。
霊の慰めは世のあらゆる喜びと、肉の楽しみにまさるからである。この世の楽しみはすべてむなしいものであるか、あるいは恥ずべきものである。
しかし霊の喜び飲みは楽しく、偽りのないもので、徳より生まれ、神によって清い心に注ぎ入れられるものである。
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いまやイエスの天国を慕う者は多い。しかしその十字架を担うものは少ない。イエスから慰めを望むものは多い。しかし苦難を望むものは少ない。イエスの食卓につくものは多い。しかし彼と断食を共にする者は少ない。すべての人はキリスト共に喜ぶことを願う。しかし彼のためにどんなことでもしのぼうと思うものは少ない。パンを裂くまでキリストに従う者は多い。しかし彼の受難の杯を飲む者は少ない(マタイ20:22)。彼の奇跡を敬う者は多い。しかし彼の十字架の恥に従う者は少ない。多くのものは難儀が少しも起こらぬうちはイエスを愛する。多くのものは彼から何らかの慰めを受けるうちは彼をたたえ彼をあがめる。しかしもしイエスが姿を隠して、しばらくの間彼らを離れるならば、彼らは不平を言うかあるいは大いに落胆するのである。
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それゆえあなたは王国に導く十字架をなぜ恐れるのであろうか。
十字架には救いがある。十字架には命がある。十字架に敵を防ぐ保護がある。十字架には、天の楽しみの注ぎがある。十字架には心の力がある。十字架には霊の喜びがある。十字架には徳の高さがある。十字架には聖潔の完成がある。十字架のほかに魂の救いも永遠の命の希望もない。それゆえ、あなたの十字架を取ってイエスに従いなさい(ルカ14:27)。そうすれば永遠の命に入るであろう。彼は十字架を負うて先立ちて行き(ヨハネ19:17)、あなたのために十字架で死なれた。それはあなたもまたあなたの十字架を負うて、その上に死ぬことを願うためである。
もし彼と共に死ぬならば、彼と共に生き、彼と共に苦しむならば、彼と共に栄光を受けるであろう(2コリント1:5)。
出展:トマス・ア・ケンピス、キリストにならいて