あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの声に聞き従うのか。
暗闇の中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神により頼め。
見よ、あなたがたはみな、火をともし、燃えさしを身に帯びている。
あなたがたは自分たちの火のあかりを持ち、火をつけた燃えさしを持って歩くがよい。
このことはわたしの手によってあなたがたに起こり、
あなたがたは、苦しみのうちに伏し倒れる(イザヤ 50:11,12)。
イザヤがここで言う暗闇とは、不確実性の暗闇−私たちの全存在を覆い包むような重苦しさです。昨日の明確さは、明日への不明確さに変えられてしまいます・・・このような信仰の試みの期間の間、神はどのように導かれるのでしょうか。イザヤが語っている最も重要な点は、このような暗闇で道を見失いそうな時にも、歩み続けなくてはならないことです。光の中では次のステップが明瞭であって、道ははっきりと見えます・・・しかし暗闇が覆うと、私たちの本能はしばし休み、座して、止まるべきだと語ります。私たちはかつては道の灯火であった神のみ言葉を疑い出します。次のステップに踏み出すのを恐れるのです。
イザヤは、どんなに暗闇が覆っていても、とにかく歩み続けるように励ましています・・・大事な点は、どんなに闇が深くても、神が光の中で言われたことを決して疑ってはなりません。その啓示の中をあくまでも歩み続けるのです・・・神は私たちが神御自身を愛するのか、それとも賜物を愛するのかを試されるかもしれません。あるいは私たちが目に見えるもの、あるいは感情によって生きるのではなく、信仰によって生きることを学ぶように導かれるかもしれません。神は決して私たちを放棄されません。私たちが信仰を感情とか、ある種の経験あるいは祝福に置くことがないように、神は御自身の臨在を隠されているのです。
次に重要なのは、道が暗闇に覆われる時に私たちが注意すべきこと、自分自身の松明を灯さないことです。私たちの自然の傾向は神の道が見えない時には、自分自身の道を行こうとすることです。あなた自身の灯火をともさないように心がけなさい・・・自分の方法を取るならば、神はそれを許容されるかもしれませんが、その結果は惨めなものとなるでしょう。このような暗闇では、私にとってイザヤ
21:11,12がとても意味深いものとなります。
セイルから、私に叫ぶ者がある。「夜回りよ、今は夜の何時か。夜回りよ、今は夜の何時か」。
夜回りは言った、「朝が来、また夜も来る。」
私は自分の人生を必ず朝が来るという希望の上に置いています。どんなに闇が深くても朝は必ず来ます。夜明け前が最も暗いのです・・・神は私たち家族のあらゆるものを奪い取られました。私たちに残されたのは互いの交わりと、神との交わりだけだったのです。しかし、もはやどこにも行くべき所がなくなるとき、朝は訪れるのです!・・・私は内側でそれは終わったと確信しました。環境は何も変化していませんが、私は心の中で朝が来たことを知りました・・・神は私たちが自分の何かが尽きてしまい、それに頼ることができなくなる時を待たれるのです。その時、私たちは神の無限の備えを見出すのです。
私たちの場合、2年の内に、神は私たちが失ったものを戻して下さいました。しかもそれは家についても、家庭についても、ミニストリーについても、以前よりはるかに素晴らしいものとされていました。勇気を出しなさい。神は最後にはあらゆる事を正当に取り扱って下さいます。
■出典:Walking Through the
Darkness, Neil T. Anderson, Here's Life, pp.197-205
(excerpt)