人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値打ちをはかられる。あなたのなそうとすることを主に委ねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない(箴言16:1-3)。
つまり神のための働きにおいて、特に祈りにおいて、心に計ることと舌の計ることが一致するためには、神の御霊によって整えられていなければならない、ということです。事実,舌はそれ自身としては、恐れも知恵も持たないで勝手に動きやすいものです。けれども、心に答えて舌が語る時は、しかも聖霊によって整えられた心に答える時は、舌は、神が命じられ,求められることをそのまま語ることができます。ダビデは自分のたましいは神を仰いだ、と言っていますが、これはまことに力強い言葉です。
主よ、わたしのたましいは、あなたを仰いでいます。わが神。私は、あなたに信頼致します(詩篇25:1,2)。
御霊の力に頼ることをしないで、神を仰ぎ、たましいを神に向けようとするならば、それは大変むずかしいことと言わなければなりません。だからこそ、神の御霊が「哀願の霊」と呼ばれるのだと思います。
わたしはダビデの家とエルサレムの住民の上に,恵みと哀願の霊を注ぐ(ゼカリヤ12:10)。
たましいが神に願い求める時、聖霊が助けて下さいます。それでパウロは、
すべての祈りと願いを用いて、どんな時にも御霊によって祈りなさい(エペソ6:18)
と書きました。
■出典:「ジョン・バニアンによる祈りの力」、ジョン・バニアン/棚瀬多喜雄訳、いのちのことば社、pp.81-82