再生とは
再生とは英語で言いますと
"born-again"
すなわち「再び生まれる」ことを意味します。私たちは肉体的には両親からそれぞれのDNAをもらって、両親の遺伝的形質を受け継いだ存在としてこの世に生を受けました。私であれば1956年の某月某日に東京のある日赤で生まれたわけです。
このように地上の両親から生まれることを、聖書的に言いますと、「第一の人アダムにある誕生」と言います。この誕生は確かにその時の両親にとっては喜ばしい事件でありますが、最後まで喜ばしいままとは残念ながら行きません。これは経験的に誰もが認めることであるでしょう。言ってみれば人は生を受けた瞬間に死刑判決が下っているのであり、徳川家康が言う通り、人生という坂道を自分の力で重荷を背負って登り続けなくてならない存在なのです。
それはアダムが堕落したとき神によって裁かれ、地は呪われ、すべての人が罪の下に束縛されたからに他なりません。そのようなアダムの負の資産を私たちは自分の意志によらず負わされてしまった存在なのです。生まれたくて生まれたのでもなく、死にたくて死ぬわけでもないのですから、人はまさに不条理な存在です。
イエスは言われました、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ福音書3:3)と。これはニコデモというユダヤ人の老教師に言われたのですが、彼は「人は歳をとってどうしてもう一度生まれることができるのですか」とイエスに尋ねました。するとイエスは「肉によって生まれた者は肉であり、御霊によって生まれた者は霊である」と答えました。イエスとニコデモの間では「生まれる」というイメージが全然異なっていたのです。イエスが言われたのは、地上の両親から生まれる第一の肉体的誕生のことではありません。イエスを信じる時、神によってなされる超自然的な聖霊による人の霊の再生(=霊的な誕生)のことだったのです。
堕落によって人は霊が死んだ者とされ、神を意識する感覚器が機能しない状態となりました。アダムにある誕生ではこの霊は死んだままなのです。ですから生まれながらの人は、神が目に見えずまた何らの物理的観測手段によって感知できないことをもって、「神はいない」と結論します。あたかも視力のない人が光を感知できないことをもって「光がない」と結論するがごときです。
神を意識し、神と交わるためには、神と同じ性質をもつ人の霊を通してでなければ不可能なのです。この再生によって霊は神に対して生きるものとされ、その機能を回復されて、神の事柄を理解し、神と交わり、神に従うことができるようになります。
知性で神を知ろうとすることはあたかも耳で光を見ようとするようなことです。「神は霊であるから、礼拝する者も霊とまことによって礼拝すべきである」とイエスは言われました。このための第一歩が死んでいた霊を再び生かされること、すなわち再生なのです。信じる者は御霊によって霊的に再び生まれることができるのです!
これまでの神の前における自分の内申書をすべてクリアーにしていただけるばかりでなく、死んでいた霊を生かされて、神を知ることが可能とされ、神と共なる新たな出発をすることができるわけです。このように御霊によって再び生されることを、「最後のアダムにして第二の人キリストにある誕生」と言います。
この時アダムにあって宿命的に得た負の資産をおろし、キリストが神の前で所有していたあらゆる積極的な正の資産を、信じるならば、すなわち自分の意志で率先して求めるならば、私たちはそれを得ることができます。
あらゆる神のみ前におけるクリスチャン経験の出発点はすべてこの再生にあります!それは霊のアクティベーションと言えます。
(C)唐沢治