Kingdom Fellowship Church
Message Outlines
2003.05.25
祈りの訓練シリーズ
私たちの究極の選択とは、自己を選ぶのかキリストを選ぶのかです。客観的霊的事実として古い私は十字架につけられ、生きているのはもはや私ではなく、キリストが御霊によって私のうちに生きて下さっています。肉もすでに私たちが十字架につけてしまっています。ところが私たちの自己(Self)の処置は私たちの自由意志に任されているのです。この自己は肉を選ぶか御霊を選ぶか選択の自由があります。この自己はすでに腐敗しており、何もよいものを生まず、人の悪口やゴシップを語り、裁くことの名人です。自分は悪くない、悪いのは人である、これが自己の本質です。延々と自分の悩みを訴え続ける人、人からの憐憫を求める人、自らの信仰によって立つのではなく、器信仰に陥る人、個人預言や悪霊追い出しのミニストリーなどを求める人、カウンセラーをさ迷い歩く人−これらの人々はみな自己を救おうとしているのです。救おうとすれば失うのです!そしてキリストの聖なる御臨在に与ることができません。私たちはそうであってはなりません。自己を手放す時、自己から解放され、ただちにキリストご自身の聖なる御臨在に入ることができるでしょう。そこにはあらゆる慰め、憐れみ、必要の満たし、癒し、解放、勝利などあらゆる良きことが満ちているのです。自己の臨在とキリストの臨在は互いに反比例します。失う者は得るのです。持っている者はますます豊かになります。生きているのはもはや私ではなく、キリストです! |
1.究極の選択-自己(Self)かキリストか
@堕落の前−無垢=善も悪も知らない健やかな状態 A善悪の木の実を食べる→善と悪を知る→肉となる B肉の構成−内住の罪(Sin)と自己(Self)(ローマ7:17,18) C罪の処置−キリストによる(ローマ8:3、2コリント5:21) D自己の処置−私たちの責任(ルカ9:23、14:26) E自己に徹底的に絶望すること(ピリピ3:3,4、2コリント5:16) F言葉によって自己を暴露する(マタイ12:34、ルカ6:45) G最後の選択は「自己」か「キリスト」か(ガラテヤ2:20) Hキングダム・フェロシップはただイエス・キリストの聖なる臨在のみを求める=深い霊性 に入る→聖なる臨在においては自己が暴露される(cf.ローマ8:1)
2.祈りのことば
2コリント5:16 ですから、私たちは今後、肉によって人を知ろうとはしません。かつては肉によってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
ピリピ3:3 神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、肉を頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。
マタイ12:34 まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。
ルカ9:23 イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分の魂を救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分の魂を失う者は、それを救うのです。」
ガラテヤ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
ローマ8:1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
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