Kingdom Fellowship Church

Message Outlines

2004.02.15


良心を強める5

私たちの良心が安息できるのは、私たちの何かによりません。信仰を自分の「信仰」や、自分の業や有様に置くのであれば、永遠に良心は休まりません。私たちの良心はイエスの業と神がどのような方であるかに頼る時に安息することができます。神は怒るのに遅く、私たちの罪に従って私たちを裁かず、憐れみと慈しみに富み、愛と恵みを豊かに注いで下さる方です。この神の御性質に頼るのです。たとえ私たちの心に責められるところがあったとしても、神はなお偉大ない方であり、憐れみをもって触れてくださる方です。この神の本性に身を委ねるのです。こうして愛がまっとうされるとき、私たちはあらゆる恐れが自由となります。聖霊を汚す罪を恐れる人がいますが、今日私たちは聖霊に逆らう罪を犯すことは決してできません。聖霊を悲しませたり、聖霊に逆らうことはありますが、これは不従順であり、悔い改める時イエスの血によって赦されます。私たちのあらゆる罪(sins)はすでに覗かれてあり、内住の罪(Sin)は十字架によって無力とされています。完全なる良心の安息と平安を得るとき、私たちの確信は強くされ、まったき信仰によって御座に近づくことができます。これが私たちの特権です。神の子の自由を満喫しましょう!これこそ父が喜んでくださる、私たちと神との関係なのです。何でも願うものを求めよ、それをかなえてあげよう、あなた方の喜びが満ち溢れるためである-神の約束です!鍵は愛によって働く信仰です。


神の御性質に安んずる

@ 神は私たちの罪に従って、私たちをあしらわない(詩篇103:10)

A 主は怒るのに遅く、恵み深く、赦す神である(詩篇86:15;103:8;145:8)

B 神の訓練は愛の訓練(ヘブル12:7-11)

C 完全な愛は恐れを取り除く(1ヨハネ4:18)

D 良心に咎めがなければ確信を持つことができる(1ヨハネ3:21,22)

E たとえ咎めがあっても、神はそれ以上に大いなる方(1ヨハネ3:20)

F 「聖霊を汚す罪」とは、( i )イエスをその目で見て、( ii )イエスがそのわざを聖霊によってなすことを知っていながら、( iii )あえて「悪霊によってなしている」として、聖霊を冒涜すること

→イエスの栄光化前は聖霊はイエスの内にあって、わざをなしておられたが、イエスの栄光化後は、イエスを証しする霊とされた。現在私たちは、イエスを目で見てもいないし、聖霊がイエスから独立して単独に業をなすことを目撃もできないので、その罪を犯すことは決してできない

注1:自分が「聖霊を汚す罪」を犯しているのではないかと心配することが、実は犯していないことの証明!この罪を犯したユダヤ人たちはそのような心配すらまったく感じることがなかったのである。

注2:いわゆる「油注がれた器」を批判することは聖霊を犯す罪ではない!そのようなことを言う者たちは、むしろ自分をイエス以上においている。なぜなら、人の子を汚す罪は赦されるが、「油注がれた器」を批判する罪は赦されないと言っている事と同じ。これこそ御子に対する冒涜である。

G 私たちの信仰の対象は、自分の「信仰」や、行いや、わざではなく、ただ神がどのよ
うな方であり、何をなしてくださったかである→永遠に変わることがない!!!




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