私たちはキリストと共に十字架において死にました。またキリストと共によみがえらされました。それは二千年前に起きた事実です。信じた者は永遠の復活のいのちを得たのです。イエスはそのような根本的な業をなして下さいました。それは神が時間の中に介入され、犠牲の供え物となって下さったことです。宮は犠牲(ヘ:コバン)が捧げられる所ですが、犠牲の意味が大切です。それは神に近づくことであり、キリストはご自分の体を裂いて、その道を開いて下さったのです。今やイエスは大祭司として至聖所におられます。これが犠牲の本当の意味です。私たちはこのようにして至聖所に入ることができるようにされ、失っていた神の栄光に与る者とされたのです。これがエゼキエルの見た幻です。個人レベルあるいは国家レベルで失っていた栄光を回復して下さったのです。これは私たちがイスラエル・フリークになることを意味するのではありません。私たち信じる者がまことの宮であり、まことのイスラエルなのです。これが私たちの運命です。地的イスラエルに対する御言葉の約束を天的イスラエルである私たちに適用することができるのです。なぜならすべての約束はキリストにあってアーメンとされたからです。そして私たちはキリストの中に置かれているからです。これが地的イスラエルに対する神の当初のご計画でしたが、彼らは今除外されています。しかし彼らも再度この路線へと戻されるのです。
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