Kingdom Fellowship Church
Message Outlines
2007.10.14
エレミヤの時代、ユダヤの民の罪はまことのいのちの水の源である主を捨て、自分たちの水タメを作ったことでした。主は彼らが自分で自分の何かに頼ることを断罪したのです。宗教はこうやって人間が人間を縁とする一連の教理・儀式・実行の体系であり、それはいのちを与えません。今日のキリスト教もこのいのちから離れて、見かけの現象を追求しているのです。しかもエレミヤは主の言葉を語ったがために、水のない井戸の中に降ろされました。そこには泥がたまり、彼はそこに埋もれました。民はユダヤの滅亡を警告するエレミヤの言葉を拒否したのです。宗教は自分が聞きたい言葉を聴くだけです。今日も同じです。まことに神の言葉を語る事はけっして世からもキリスト教からすらも歓迎されません。彼らはその宗教の沈殿した泥の中に神の言葉を語る者を埋めようとするのです。しかも町にはパンも絶えてしまいます。かくしてバビロンイよってユダヤは滅ぼされるのです。今日バビロン化したキリスト教にあっても同じです。まことのいのちの水を下さるお方に立ち返ること。御霊は今日、人間イエスの霊に住まわれた、イエスの人間性を証する霊として私たちに内住されるのです。イエスが獲得されたもの、経験されたものはすべて私のものです。愛、平安、忍耐・・・などの御霊の実(単)の要素を個々に下さるのではありません。実、すなわち内に形つくられるキリストご自身を下さるのです!何故なら御霊はイエスのパースン(人格)を私たちの内にインプラントし、育て、養い、具体的に形作るからです。これが御霊の働きであり、聖霊派が知らない聖霊の経綸的な新約の機能です。ますますキリスト教という宗教から解かれ、いのちの君ご自身を見出しましょう。
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<<週報& メッセージアウトライン>>(pdfファイル)
■御言葉:ヨハネ7:37−39
@人間の渇き(37節):イスラエルの地=渇きの地(エレミヤ2:13)→自家製の水タメを作る
Aエレミヤの試み(エレミヤ書38章):エレミヤ(=ヤハウェは高められる/基礎づけられる)はユダの運命の真実を語った;人々はそれを嫌う;井戸に投げ込むが水がなく、泥に埋まる;町にはパンがなくなる;ゼデキア王の交渉;バビロンによる征服→宗教(良い事だけを聞きたがる)の虚しさ(水もパンもない);真実を回避する;宗教はまことの神の言葉を拒絶する
Bイエスの聖霊の約束(38節):生ける水が川々となって流れ出る
Cイエスの栄光(39節):御霊は栄光の前には「まだなかった」→経綸的に御霊はイエスの人間性を証する(ヨハネ16:13-15);イエスの得たもの、イエスの経験したものはすべて私たちのもの
D御霊の実(ガラテヤ5:22):神はこれらのひとつひとつを別個に下さるのではない!イエスこそすべて!
■暗証聖句
エレミヤ2:13 まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて/無用の水溜めを掘った。水をためることのできない/こわれた水溜めを。
ヨハネ7:37 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川々となって流れ出るようになる。」
7:39 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている"霊"について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、"霊"がまだなかった(原語)からである。
16:13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
16:14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
16:15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
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