Kingdom Fellowship Church

Message Outlines

2007.11.11

神の国の奥義(30)


人なった神は人類の大いなる光でした。私たちは元々盲目の中に生まれましたが、イエスの目に留まった存在です。イエスはご自分の唾と土くれである私たちをこねて、泥を目に塗り、シロアムの池で洗わせます。シロアムとは、創世記で約束されたユダ族から出るシロ(=メシア)であり、イエスご自身を意味します。私たちはこのシロアムの池で目が見えるようになり、光を得たのです。この意味で盲人であること、いや、自分が盲人であると知っていることは幸いです。進んでシロアムの池なるイエスの元に来て、霊的盲目を癒していただきましょう。主の方法は理解できないのですが、確実に目が開かれるのです。ユダヤ人は例によって自分の肉を頼りとし、イエスを認めませんでした。自分が目が見えると思っているですが、イエスを受肉した神と認めないことこそが、罪であり、盲目の兆候なのです。たとえクリスチャンと称していても、神学や主義や思想にはまって、イエスご自身を見ないことは盲目の兆候です。私たちはたえず自分が目の見えない者であり、主の唾とこねられて、まことのシロアムの池にたえず戻り、洗うことによって、イエスを見続けることができるのです。そのために知恵と啓示の霊をたえず求めつつ、御言葉と内なる御霊の導きに委ね続ける必要があります。見えない者は幸いです。


<<週報メッセージアウトライン>>
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人となられた神N


■御言葉:ヨハネ9章

@イエスとの邂逅(1節):通りすがりに(新共同訳)→何気なく主の視界に入る幸い;主が目を留めることが先

A罪と神の栄光(2節):神の栄光>>>罪(cf.ローマ3:7)

Bイエスのアイデンティティ:「わたしは光である」(5節;cf.ヨハネ1:14;イザヤ9:2)→世(=コスモス)とは人々の事、すなわち歴史的な受肉を指す

C盲人の癒し(6-8節):つば(=イエスは人であることの証明)で土をこね(cf.創世記2:7=yatsar=form)、盲人の目に塗る→イエスの口から出る成分で土(=アダマ=私たち)をこねる(cf.イザヤ29:16;45:9)→シロアム(遣わされた者=イエス、創世記49:10の預言の成就)の池で洗う→目が開かれる(=神のわざの理解し難さ)

Dパリサイ派の盲目(13-34節):主は安息日の主であり、主が何かをされると必ず波風が立つ→宗教の霊(=自己栄光化の霊)が刺激される(例 ユダヤ人のプライド;28節)

E見えることとはイエスを誰とするかの問題(37節)

Fイエスのわざ:盲人を癒し(イザヤ42:16)、目の見える者を裁く(=イエスを信じないこと;ヨハネ3:18)

G"見える者"たちのわざわい(41節)

H私たちの祈り(エペソ1:18):心の目(=理解力の目)が開かれること(cf.2コリント4:4)→クリスチャンも同じ(イエス以外に主義や思想などに目を注ぐ者は盲目)

I知恵と啓示の霊に絶えずとどまる(エペソ1:17);光の中で光を見る(詩篇36:9)


■暗証聖句

9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。

9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。」

9:37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」

1:17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、

1:18 心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。