Kingdom Fellowship Church

Message Outlines

2009.01.25


弱さに生きる

神の道と世の道は真逆です。世では力を求め、カネや地位を獲得し、影響力を行使し、何者かになることがすべてです。神の道は逆です。主イエスご自身がまず力のない、弱い、赤ちゃんとして地上に来られたのです。ヘロデの陰謀に対しても無力でした。しかし神の配剤と摂理によって守られ、30年間の普通の人間生活を送りました。この間に人間として生きること、無限の神が人間性の中に閉じ込められることを味わわれたのです。さらに究極まで父に従い、弱くされ、十字架の死にすら閉じ込められました。が、彼は御霊によって復活し、今や永遠に全うされた大祭司として、天の至聖所で私たちの弱さのためにとりなしをして下さっています。人は自分の弱さを認めたがらず、隠し、さらに虚勢をはって、何とか取り繕うことを考えます。男は特にそうです。が、自分の弱さに逆らわず、むしろその弱さとひとつになるとき、つまり価値判断をやめるとき、私たちの心には主の憐れみが注がれ、むしろその弱さが主へともたらす動機となります。この大祭司は私たちとまったく同じ弱さを知っていて下さるのですから、大胆にはばかることなく、時期を得た助けを受けるために恵みの御座に触れることができるのです。その座からは神の贖い、聖、知恵、力、あらゆる私たちの必要を満たす良きものが流れ出てくる事でしょう。このいのちの流れによって私たちは生き、またイエスの息吹きを呼吸し、イエスのすべてによって満たされるのです。このためのコツは私の十字架です。十字架は私たちの魂を破壊するのではなく、その中のエネルギーをリピドーから御霊のエネルギーへと交換するのです。内なる大草原の解放感を楽しみましょう。 


<<週報メッセージアウトライン>>
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=弱さに生きる=


聖書:Uコリント12:10;Uコリント13:4;ヘブル4:15-16;5:2;7:28

@神の価値観は人の逆説(cf.マタイ5章):人は力や能力を求めるが、神は無力さ、その究極の死を求める→神ご自身が力となり、能力となるため(Tコリント1:30)
Aキリストの十字架はキリストの弱さのゆえ(Uコリント13:4;ルカ23:46)→御霊が復活させた(ローマ8:11);神の力によって生きている(2コリント13:4)
B弱さは神の憐れみに与り(ヘブル4:15;5:2)、神の大能に入る道(マタイ9:36)
C主イエスは完全な弱さ(=死)を経て、永遠にメルキゼデク系の大祭司としてまっとうされた(ヘブル7:28)→大胆にはばかることなく恵みの座に近づく(ヘブル4:16)

●暗証聖句●

キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。

この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。

また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。

律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。