Kingdom Fellowship Church

Message Outlines

2009.06.28

十字架の意味

主が私たちに自分の十字架を負えと言われるとき、それは難行苦行や、肉体を苦しめることや、自己疎外をすることではありません。魂の機能は思い・感情・意志として大いに活用するのですが、それを駆動するエネルギーの源が切り替わるのです。アダムとエバはエデンの園で自分の魂を自分勝手に使いました。それが肉をかき立て、神の言葉に反逆したのです。それまでは神の中にあって神に完全に頼って生きていた彼らが、エデンの園を追い出され、自分の力で生きることになりました。鍵は十字架とはこの神から独立した魂と肉体のあり方を否むのです。それは御霊によって臨在される内なるいのちを与える霊としてのキリストが生きるゆえに、私たちも生きるのです。この生き方は実に安楽であり、楽しく、あらゆることが神によって配剤され、神によって備えられ、神によって満たされることを経験することのできる道です。真に神に任せるのであれば、私たちの生活には安らぎと潤いとが満ちるでしょう。それが私たちを通して発散されるのです。最近、病気とニオイの関係が分かってきています。ニオイは私たちの肉体の内にある要素が流れ出たものです。同様に霊的には内にいますキリストが流れ出ることが、キリストの香りを発散することです。そのためには私の力を抜くこと。私の力が抜けるほどに、キリストのいのちが生きて下さるのです。ますます十字架を慕い求めましょう。


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 聖書:マタイ16:24-25

@自分を否むこと:否むとはaparneomai=apo(離れる)+arneomai→(放棄する)→自己疎外ではない(cf.コロサイ2:23)
A魂の機能と原動力の違い:リピドーによる駆動か、御霊のエネルギーによる自発的活動か(cf.ヨハネ6:51;ヨハネ10:10;14:19;1コリント15:45)
Bエデンの園と新エルサレムの状況を想うこと:アダムとエバは完全に神に信頼していたが、自分の判断をしたため追われた(肉=神からの自立的行動);新エルサレムはいのちだけの世界
C現在は味見の時代(1コリント13:12;)


●暗証聖句●

マタイ16:24-25 わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命(魂)を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命(魂)を失う者は、それを得る。

1コリント15:45 最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。