礎石とつまづきの石
聖書には「石」という言葉が何度も用いられており、イエスに関する表現にも石に関連した表現が用いられています。たとえばイエスは捨てられた石(使4:11)、礎石(エペソ2:20)、つまずきの石(1ペテロ2:8)など。イエスは王としてエルサレムに入場され、人々から「ホサナ」(マタイ21:9)と歓迎されました。しかしその1週間後に、同じエルサレムの人々に捨てられ、十字架にかけられました。正に捨てられた石だったのです。また、パウロは礎石であるイエスにあって建物全体が成長し、聖なる宮となると述べています(エペソ2:20)。一方イザヤは、イスラエルに妨げの石とつまずきの岩が置かれると預言しており(イザヤ8:14)、実際にイエスはエルサレムの人々にとってつまずきとなりました。このように、イエスは様々な石なのですが、何故主は礎石である一方、つまずきでもある石を用いられるのでしょうか。それは神の子供達の選別のためであり、選ばれた子供達がより深い神の御言葉を体験するためです。異なる土台を用いるとたちまち水に流され、礎石であるイエスの上に自分(セルフ)を立てようとすると、その礎石はつまずきの石となります。また立てあげたそのセルフはどれだけはなやかで立派に見えても、いずれ焼かれます。私たちはイエスが礎石であることを知っています。ではその上にセルフを立てあげることなく、聖なる宮を目指して立てあげて行きましょう。 |