復活の条件
「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり」ではじまるのは有名な平家物語ですが、人が作ったものには必ず寿命があります。日本企業では当たり前であった年功序列や終身雇用は崩れ、消えて去った大きな企業もあります。日本で唯一の政権政党と思われてきた自民党も去りました。一方そこから新しいものが出てくることも事実で、イエスは一粒の種が死ねば、多くのみを結ぶと語りました(ヨハネ12:24)。このように死がある一方で復活があります。聖書には肉体の復活がいくつか示されています。ラザロ、会堂司ヤイロの娘(マルコ5:35〜43)、ナインの寡婦の息子(ルカ7:11〜17)などですが、これ
らはイエスがおこなわれた癒しや奇蹟の業の一つにしかすぎません。私達にとって重要なことは、むしろ霊的復活であり、主は既に私達の中に復活のいのちを蒔かれたという事実を自覚することです。しかし私が生きていると、その復活のいのちは芽を出しません。復活には、じたばたせずに完全に死ぬことが前提です。モーセは川から引き上げられるとき、何も出来ない赤ちゃんでした。ノアが洪水から引き上げられたときは、箱舟の中で何も出来ない状態でした。イエスは十字架に付けられるときに、完全に無抵抗でした。生きようともがかず、また自力で復活しようとしないことです。古い自分は死んだ(十字架に付けられた)という事実を自覚し、古い自分が姿を現しているときは何度でも死ぬことです。このようにして復活のいのちの経験を積み上げていきましょう。 |