「新しい記憶」を語る
’第ニの人’とエクレシアが楽しめているなら、それは主にあって結婚生活をenjoyできているといえます。しかし、私の内にある’古い人’はそれを妨げようとします。自分の生い立ちや人間関係など、思い煩いや悩みの対象は旧創造、あるいは。アダム系列に属するものばかりです。----記憶(事実であるか誤謬であるかに関係なく)に魂(女性名詞)が隷属してしまうことがあります。信仰に立ちましょう!そして霊(中性名詞/主と私はひとつ)から新しい記憶(事実そのもの)を語りましょう!主は最後のアダムとして十字架に臨み、「第ニの人」として復活してくださいました。復活のイエスが復活の息を弟子達に吹きかけ、嬰児としてのエクレシアが生まれました。イエスのわき腹から流れ出た血と水によって、世と罪から購い出されたのが私たちです。肉から生まれるものは肉であり、霊から生まれるものは霊です。アダムが自分のあばら骨から創られたエバを「私の
骨の中の骨。。。」と自分の歓びの言葉で受け入れました。復活のイエスが弟子達に復活の息を吹きかけた後のイエスの表情、あるいはご自分の言葉を使徒ヨハネは福音書に記述していません。何故!たぶん、おそらく、うれしさと歓びと御父への感謝のあまり、言葉であられる方(δλoγos)が言葉になりきれなかったのでは。「新しい記憶」とは’第ニの人’と私たちエクレシアの永遠の関係の言葉です。
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