ダビデの鍵
フィラデルフィアの教会には主はほめ言葉のみをかけています。少しの力しかなかったが、御名と御言葉を否まなかったと。その主については「聖なる方、真実なる方、ダビデの鍵を持つ方」と言われます。キリストは神の真実を表すために、割礼のある者たちに仕え、キリストにあってすべての神の約束はアーメンとされました。前回は私たちの地上の人生はその真実を味わうためにあると語りました。今回見たいのは、その真実なる方が持たれるダビデの鍵です。この方こそがこの鍵によって開けること、閉めることがおできになります。ダビデはキリストの影であり、型でした。旧約ではこの鍵は宮廷を支配したシェブナにありました。彼は自分の思うままに振舞うことができ、高いところに自分の墓までも自分で用意するほどでした。しかし彼の持っていたダビデの家の鍵はヒルキヤの子エルヤキムに与えられました。栄光はすべて彼の上に置かれることになりました。が、彼もまたその立場を失うのです。ここから学ぶべき私たちの学課は、この鍵の効果に与る秘訣は、シェブナにならわないことです。自分の家を岩をくりぬいてつくり、自分で高いところに墓を用意することは、まさに自分の業を意味しています。究極的にこの鍵を永遠にお持ちの方、すなわちキリストこそが、私たちの人生の扉を開いたり閉じたりすることができるのです。そしてその方の名は真実。私たちはその開かれている扉を通って歩めばよいのです。私の力によらず、鍵を持たれる方の力によって、私自身で自分の人生の思い煩う必要はなく、この方がこの鍵で開けて下さるのです。 |