恵みを広義にとらえる
エデンの園の中央に目を向ける時、善悪の知識の木といのちの木を認識することになりますが、女が蛇との交わりにおいて前者の実を食するように仕向けられ、実際にそうなってしまいました。そして終末のキリストの再臨直前には福音が全世界に述べ伝えられることになっていますが、それは全ての人が救われてから再臨を意味するわけではありません。イエスの死と復活を信じられたこと、イエスを主と告白できたことは御言葉(logos)の中に満ち満ちているいのちを食したのであり、得たことになります。が、ヒトの歴史は大多数がいのちを認識することはあっても食べ損なう結果となるでしょう。その中で私たちが実際に主を告白できたのは恵みの実体がもたらされたのです。そこに至までの信仰者一人一人の時系列はいろいろですので、恵みを広義に受け止めるべきです。(もちろん本質は、神の側の一方的なものであり、人の側の何かが介在しているものではないですが。)例えば、「目には目を。歯に歯を。。。。」を一般的に復讐法と呼ばれていて、古代の野蛮法と呼ぶ人もいます。が、決してそうではありません。私の肉にある罪の律法のほうがよっぽど野蛮で、同害復讐では満足できず、とりとめもなく利息をつけた復讐心があります。神の律法はそれに歯止めをかけて、加害者・被害者の権利義務を相殺して総和が0になる律法です。ここにも私の不真実とともに主の真実が明らかであり、恵みが律法に満ちているじゃないですか。恵みを広くとらえられれば、より味わえます。 |