律法は恵みへと導く
律法は聖であり、良いものであり、アブラハムへの約束を無にしません。律法は来るべき実体であるキリストが現れるまで、選びの民を守るために、キリストへの養育係として機能していました。今やその本体であるキリストが現れたので、その機能は不要となりました。恵みはキリストによって到来し、キリストはいのちを与えてくださいました。律法はいのちをあたえることができませんでしたが、現在でも私たちの魂を恵みなるキリストへと立ち返らせる働きを持っています。私たちの魂はしばしばそれ自体が独立的に働くことにより、思い煩いや、不安や、世の楽しみなどへとさ迷い出るのですが、律法はそのさ迷う魂をキリストへと立ち返らせてくださいます。かくして私たちクリスチャンにとっても律法は神の愛による守り、道標、道しるべ、足の灯火として、私たちをキリストのうちに守ってくれるのです。旧約聖書を読んで裁きを受けたと感じてしまう人は、真の神の愛に触れていません。愛は恐れを取り除くのです。もし私たちの実態が律法のレベルに達していないとしても、私たちは恐れる必要はありません。律法によって裁かれたと感じる必要はないのです。なぜならキリストにある者は決して罪に定められることはないからです。もちろん犯罪を犯せば世の法律によって裁かれます。それは当然のことですが、今ここで語るのは神の前での霊的問題です。私たちはたとえ主から叱責されたにしても、律法によって計られたにしても、安心していていいのです。それさえも私たちが自分自身では絶望であることを証明し、ただちにキリストを必要としてことを思い起こさせてくれるのですから。つねにキリストへと立ち返ること。律法は恵みたるキリストへと私たちを立ち返らせるのです。
|