新創造で得たもの
失ってはならないもの
今年のスローガンである「神の幸福」を追求するなら必然的に私たち信仰者、あるいは礼拝を捧げる側のニーズ・満足ではなく、礼拝を受ける側・お方のそれに第一義的な視点が注がれることになります。主がガリラヤからエルサレムへサマリヤ経由で旅の途中、十人のらい病人と出会います。彼らの叫びに応答し、「行って祭司に見せるように!」と言います。見せに行く途中で十人が十人ともいやされますが、引き返して、ひれ伏し感謝したのはサマリヤ人ひとりだけでした。このことは霊と真理による礼拝であり、主を満足させるものでした。反面選民であるあとの九人が礼拝に参加しなかったことは新たに主に嘆きを生じさせます。再び地上に来る時、はたして地上に“ある特定の信仰”がみられるかどうか。決してその場限りの問題ではなく、時系列的に二千年余り経過していますが、主は救った方としていのちを与えた方として、全ての面で主として聖なる主張をし続けています。ところで、霊の賜物は上から与えられたものですが、信仰そのものもその一つです。ペテロは主を三度否む大失敗を犯す直前、主から面と向かって「あなたの信仰がなくならないように私は祈りました。」と言われました。何故口に出さなければならなかったのか。あらゆる手立てでペテロを失いたくなかった主の愛が満ち満ちています。裏を返せば信仰がなくなることもありえることを露呈しているわけですが、新創造で得たものが失われるのは決していのちと恵みの路線上ではありません。善悪路線をはじめ旧創造(十字架手前)で行き詰まりになっている路上で失われるのです。真理の反対である“迷い”の中で失われるのです。新創造(いのちの御霊の法則の領域)で得られたものは新創造に保たれるべきです。 |