希望を味わう
主の十字架は時間軸上に位置して新約と旧約を区分するものではありません。旧創造と新 創造の接点に位置して、そこを通って復活から広がっている‘いのちの御霊の法則’であ る新創造に移しかえられた者がエクレシアです。ですからパウロが‘私はキリストと共に 十字架につけられた’というとき新約の私の十字架が現在や未来で主の十字架が過去であ るわけがないのと同様に、旧約の信仰者にとっても‘私はキリストと共に十字架につけら れた’となります。旧約のイスラエルの民が単に機能的選びに甘んじているのを主が良し としているのなら、‘全身おできのラザロとある金持ち’の話が成立しなくなります。十 字架は神ご自身の証しです。結局終末の最後の最後における主の再臨において、復活のい のちを得させようと主の摂理・配剤が臨んでいます。 ところで終末の前兆について主はいちじくの木からたとえを学びなさいと言われるように、イスラエルの動向に着目すべきですが、私たちの時代、まず1948年のイスラエルの建国が大きな驚きです。聖典としての御言葉に用いられたヘブル語が公用語として復活したことが奇跡でしょう。聖書からはおもにゼカリヤ14章を中心に見ていきたいと思います。
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