時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えなさい
何か災害が起こるたびごとに、多くの日本人にとっての恐れが目に見える現象面に留まってしまいます。その象徴的な言葉が「地震・雷・火事・親爺(-現在の日本では権威失墜による死語)」です。その向こうにある目に見えない世界の霊的な存在に思いが至らないことに、なんとももどかしさを感じます。科学技術の粋を集めた人間の構築物も自然の力に耐え切れないでいる現象・・・・目に見える世界には結局のところ真の救い、助け、平安(安全)を見出せない中、改めて主の十字架がわが隠れ家、避けどころであることを覚えます。これは決して空想ではなくリアリティーです。-もちろん災害に直面したら、そこから逃れることは真の助けではありますが、神はご自分のために万物を創造され、ご自分にあって万物を成り立たせている御子を恐れ-畏れてほしい、真の、そして唯一の礼拝の対象として知って(γινωσκω)ほしいと願っています。本当の救い・いやしは主の十字架のことばにありますが、先に述べた多くの日本人には魂領域の感情を逆なでするだけで終わってしまうのが目に見えています。しかしそこに痛みが生じてもその人の霊のことば(ο
λ.γο.)が到達すればその人は真に救いを得たことになります。だからこそ心にあせって人間的な業で不用意に不特定多数の人を傷つけたくないし、「いのちの御霊」の法則が働いて遣わされるべきところに遣わされたいです。
-今、終わりのはじめにあって十字架のことばを語ることに覚悟が求められています。同時に再臨への希望・贖いの完結を語るべきです。
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