Kingdom Fellowship Church



Message Outlines

2011.09.18

聖を追い求める

日本語の「聖人」は、賢くて特に優れた人を連想させますが、本来「ハギオス(聖)」は分離や区別を意味します。旧約において聖なる神はイスラエルの民に聖であることを求めました。すなわち俗なる世間から離れ、神のもとへと分離されることを求めたのです。人々はそのため律法を守ることを集中し、自分の力で聖になろうとしました。しかし、イエスの十字架によって私たちは既に「聖」とされているのです。一方主は既に聖とされた私たちに、聖であることを求めます。聖であること、すなわち主のもとに分離され続けていることを追い求めることは、クリスチャンの成長に欠かせないからです。ではどのように求めるのでしょうか?礼拝や献金を欠かさず、教会の仕事を熱心に行うことでしょうか?主は一人ひとりの心を見られます。主が願っておられるのは、熱心に教会の事
を行うではなくまず第一に主を知ること、主との交わりを深めて行く事です。自分、あるいは牧師や教会という組織の事などの俗世間の事を第一とするのではなく、主が第一なのです。イエスは完全に人であり、完全に神のもとに分離された方でした。すなわちイエスの聖は安定していました。私たちの聖は残念ながら安定していません。時折どころかしばしば神のみもとから離れ、俗なるもののほうに惹かれて行きます。主の臨在に深く、長く入ることを求め、すこしでも安定した聖になることが求められます。このことが十字架に肉を付けたことになるのです。
                                 


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1.クリスチャンに与えられた資格

@ イスラエル:聖なる国民とされる存在。出19:5-19:6 、レビ11:45

A 私達の状況:すでに"聖とされた"。イザヤ57:15、ヘブル10:10

      私たちの何かによるのではなく、ただ神の御業の故。

2 追い求めること

2-1「受動的な信仰」

    クリスチャンの生涯は受けること、努力して得るものはない。

    例:イサクの生涯 CFヤコブの生涯⇒コツコツと取扱いを受ける生涯。

2-2「聖とされる」

2-2-1 聖になろうとすること。

主は私たちを聖なるものとしたが、旧約と同様に聖であることを求める。ヘブル12:14、マタイ5:8

"聖人"と認定されるための修行はナンセンス。コロサイ2:20-23

儀式を行えばよいのか?⇒主は心を見られる。旧約の時代でも。

    1サムエル15:22、詩51:16-17、イザヤ1:10-15、ミカ6:8

2-2-2 追い求めるものは?

「聖とされること」を求めるとは?ホセア書6:3、ピリピ3:9-12、2テモテ2:21-22

追い求めるという生き方はキリスト者としての成長のために必要。

消極的に主の恵みを待つのではなく、積極的に主を求める。クリスチャンはあくまで積極的。

3 求め続ける。結果的にとどまり続ける。

神の「聖」は安定した聖。我々の聖は不安定な「聖」⇒神との関係が安定していないから。

1コリ1:2、1ぺテロ1:15-16

聖なるものとされ続けなければならない。

4.結論

主の祈り 天の事を第一にした祈り。

マタイ6:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。

6:10 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなた

のものだからです。アーメン。〕