Kingdom
Fellowship Church
Message Outlines
2012.05.13
主が与える自由
ここ2,3年のKFC
での交わりで、クリスチャンと呼ばれている人の間でイエスという名を否定する者の現われてきているのが、度々話題になっていますが、旧約の信仰者(今日に至るイスラエルの民)の間ではイエスの名そのものを否定しているわけでも、つまづいているのでもなく、キリストであることにつまづいているのを改めて感じています。彼らは蔑視の意味でナザレのイエスと呼びますが、機械的にさえイエス・キリストとはならないのです。ピリポカイザリヤで主が弟子達に対して「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と問うたとき、ペテロが「あなたはいける神の御子キリストです。」と告白しました。この告白はエクレシア共通のものですが、終わりの終わりの日には旧約の信仰者にももたらされることを十分に期待できます。さてそのペテロは主から「人間をとる漁師にしてあげよう」といわれます。シアヌルの地のニムロデが魂の狩人であるなら、ペテロのそれは霊の漁師と呼べないでしょうか。 主によって主のために獲得された霊には自由がもたらされます。この自由は商品にはなりえません。初代教会から今日に至る世界中のエクレシアには同じ自由が与えられているはずですが、その受けとめ(取り)方に温度差があるように思われます。そこで改めて、主観的にも実態的にも自由を味わうには御父および御子との交わりが必要です。領域の拡大には主の知らない部分をより知っていくことが必要です。越脱しないように、保持されるようにメルクゼデキ系の大祭司イエスがご自身の血でとりなしてくださっています。自由を味わい、楽しみましょう。
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