真理はあなたがたを自由にする



―客観的真理を主観的経験とする鍵―





■本稿はいのちのことば社月刊誌Sight21の2001年4月号の記事の原稿です。



1.真理に帰れ


「真理はあなたがたを自由にする」―はたして何%のクリスチャンがこの自由を享受しているだろうか。現に御言葉が脇にやられ、○○セラピーとか自己啓発セミナーなどが流行している。「聖書はよく知っているが、自分の問題に適用できないから、他の方法を模索している」と言う声を何度聞いたことだろう。しばしばその「知り方」は、純粋な御言葉から離れて一人歩きした聖書解釈や神学的立場によってバイアスされている。パウロは言う、「すべての人を偽りとしても神を真実とせよ」。

現在のキリスト教会の急務は、福音派であれ聖霊派であれ、あらゆる先入観をおろして、混じりけのない御言葉の真理に帰ることである。悩む人々の特徴は、それぞれに色眼鏡をかけ、そのフィルターを通して世界を、御言葉を、そして神を見るために、その像にバイアスが生じる。すると行動もバイアスされ、事態をますますこじらせる。

一旦すべてを降ろし、御霊の下で御言葉に戻り、ダイレクトに真理と対峙することが緊急の課題である。


2.パースンとしての真理


「真理とは何か」―かのポンテオ・ピラトの質問である。またそれは人類が善悪の木の実を食べて自意識に目覚めて以来、古今東西の学者が追求している課題である。

普通、真理とは物事の道理、あるいは誰が実験あるいは判断しても同一の結果を生む普遍的な事実または法則であるとされ、自然科学、人文科学、社会科学それぞれに固有の法則が見出されている。それは言語で記述される世界の映像である(ヴィトゲンシュタイン)。しかし最も緻密かつ精緻な物理法則でさえ、時にそのフレームに収まらない新事実が出現して、専門家を慌てさせる。

しかるに聖書は、真理とは一人のお方(パースン)であると言う。イエスはご自分のアイデンティティーについて「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われた。神格の第二位であった神の言(ロゴス)なるお方が人性を取った存在、それがイエスである。万物の源がこの三にして一なる神であるとすれば、その神の言であるお方こそ、神の神たるすべてを説明し、同時に万物の源である。よってそのパースンの内に万物のあらゆる法則をも包含した究極の真理であると言える。


3.霊的知識としての真理


もう一面は、霊的な道理、あるいは霊的事象の説明である。例えば、罪や肉とは何か。神はそれらをどう解決され、私たちはどう対処すればよいのか。その霊的ダイナミクスの解明としての真理である。


3.1. 罪とは



ローマ書では、6章より前では行為としての複数形の罪々(sins)を扱い、6章以降では罪々に導くルーツとしての単数形の罪(Sin)を扱う。イエスの血は行為としての罪々をきよめるが、単数形の罪は残る。これはイエスが再臨されて、私たちの体の贖いの際に完全に消える。罪(Sin)は罪と死の法則に従って、私たちの身心の欲求に刺激を与え、罪々へと誘う。霊が死んでいる神から分離された古い人はこの誘惑に勝ち得なかった。

罪(Sin)からの解放は私たちの古い人の磔刑による。古い人は2,000年前キリストと共に十字架につけられた。かつて罪は思いのままに古い人を操り、その体に罪を犯させてきたが、罪と体を結ぶ媒体であった古い人の死によって、体は罪に対して無効力にされた。神は代わりにキリストにある新しい人を得させて下さった。私たちは罪に対しては死んで、神に対しては生きる者とされた。

ではパウロが7章で擬人化する内住の罪(Sin)とは何か。しばしばこれを私たちの"罪の性質"と解釈するが、聖書の真理に矛盾する。もともと"罪の性質(sinful nature)"という用語はNIVにおける肉(flesh)に対する訳語である。しかし罪(Sin)と肉は異なる。つまり内住の罪とは"罪の性質"ではない。

パウロは罪を犯すのは私ではなく、内に住む罪であると宣言している。"私ではない"のである。もし"罪の性質"と言えば、その性質・属性を持つのは"私"に帰されることになる。そこで私たちの責任は内住の罪に体の支配権を委ねないことにある。

パウロが擬人化する内住の罪(Sin)のアイデンティティについて、パウロは客観的定義を与えていない。それは哲学や精神医学において"意識"とか"自己"を客観的に定義し得ないのと同じである。しかしそれは主観的経験として知られる。言えることは、罪は一人の人の違反によって人類に入り込んだ外来性の異物なのである。


3.2. 葛藤の霊的ダイナミクス


私たちの古い人は死に渡されたが、依然として私たちの大脳と中枢神経系には古い認知行動パタンが残る(条件付け)。これがパウロの言う肉であるが、大切な点は、これはキリストにある新しい現在の私ではない。しかし肉を自分と同一視して、肉の罪深さとか問題を見つめて深刻な葛藤に陥るケースが多い。肉は古い人の取り繕い(自己防衛機制)によって、その内部は複雑に錯綜している。精神分析や精神病理学はその構造の解明を意図するが、意志力やサイコセラピーで改善しようとするとますます葛藤を深める。

聖書は肉も死によって処置する。パウロは私たちが自分の肉を十字架につけてしまったと言う。私たちはそれを信じて御霊に従うか、あるいは不信仰によって肉に従うかという選択に直面する。罪の唆しによって疼く肉に従って生きるならば、依然として私たちは罪を犯す。その結果自責感やサタンの罪定めで病的に苦しむ人もいる。

パウロはローマ書とガラテヤ書において2種類の葛藤を記述している。ローマ書7章においては神の律法(Law)を行ないたい私の思いの法則(law)に対して、肢体にある罪と死の法則が対立する。パウロは法則に対する処方を誤って、葛藤する。あたかも自分の髪を引張って空を飛ぼうとする試みと同じである。しかし飛行の法則が引力の法則を無効にするように、8章でいのちの御霊の法則を見出すことにより、彼は罪と死の法則から解かれる。

対してガラテヤ5章の葛藤は御霊と肉の葛藤である。この17節は「この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができない」と訳され、あたかもローマ7章における「私は自分がしたいと思うことをしているのではなく」(15節)と同様の葛藤と見られている。

しかしこれは原意と異なる。ギリシャ語の直訳は"lest whatever you may will, these you do"であって、永井訳では「是れ何にても汝等の欲する、それらの事を汝等の為さざらんためなり」とする。ここは御霊と肉が互いに対立しあって、肉の欲する事を私たちがしなくなること、即ち肉の働きを沈静化するのは御霊であることを言う。客観的事実として古い人は二千年前にキリストとともに十字架につけられ、肉も過去のある時点で私たちが十字架につけた。その霊的事実(真理)を実際の経験とするのは御霊である。

普通私たちの抱える葛藤はこの2種類が複雑に錯綜して経験されるが、現象論的に言って、何かをしよう(しまい)とすればするほどできなくなる(してしまう)という精神葛藤を、精神病理の用語で"精神交互作用"と呼んでいる。多くの神経質タイプの神経症で見られる病理である。


4.真理の適用


聖書真理の扱いで注意すべき点は、客観的真理と主観的経験を明確に区別することである。霊的真理と実際の経験のギャップがあるが、これで悩むケースがまた多い。その原因を過去のトラウマ、隠された罪、悔い改めの不足に帰して、自分の内側や過去を探索して、かえって葛藤を深める。

実はこのギャップを埋めるのは神の側からは恵み、私たちの側では信仰(=神への応答)が求められる。過去に戻る必要はない。私たちに必要なのは現在の信仰である。神はその真理を経験化するために、御霊を内住させて下った。御霊は神のロゴスにして真理であるイエス・キリストの言葉とわざ、そのパースンを私たちの内で実体化する。ポイントは、古きに死んで、新しきに生きることにある。完成された神の御業に対して、信仰で応じるとき、御霊が真理なるキリストをいのちとして証しし、その死と復活の真理をも私たちの経験とする。

真理の言(ロゴス)が信仰と結合されるとき、レーマとして経験化される。またそのレーマは霊であり、いのちである。これが私たちの錯綜した心を解き、傷ついた部分を癒し、真理に沿って再構成する。これが御霊の機能である。私はシェマティックに<ロゴス+信仰=レーマ=霊=いのち>であり、<客観的真理+信仰=主権的経験>と表現している。鍵は真理を実体化する私たちの信仰にある。

(スペースの関係で根拠となる聖句は略した。なお最近リバイバル新聞において私の提唱するダイレクト・カウンセリングの連載全12回を終了したが、それらの記事も参照されたい。記事の全文は私のホームページで閲覧可能。)



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