ダイナミック・フリーダムG ―キリストにある自由の獲得― 赦しの実行(1) ■一、赦しの必要性 (1)根拠は十字架 私たちの魂のうちに抑圧されている霊-感情観念複合体は、その情緒経験をもたらした対象や相手を赦さない間はそのまま残り続け、御霊の働きも疎外されたままです。すると人は様々な形式でそのエネルギー複合体を処理しようとします。理由もなく攻撃的傾向を示す人、自分で自分を罰する人、顔とか体にチック(無意識的痙攣)を示す人、制御し得ないガンバリズムで消耗する人、訳もなく抑鬱に陥る人、あるいは内側と外側が乖離する人などです―しばしば外見的には他人のために自己犠牲的に働いている人々において、しばしば抑圧された怒りや憎悪の感情が観察されます。いずれも抑圧された感情をもろに表出しますと様々な問題が生じますので、それを代償的に解消しようとする試み―取り繕い―なのです。 これらの問題はその事態を引き起こした関係者を赦すときに、真の解放へのメカニズムが作動し出します。しかしながら、私たちが真に赦しを実行しないままですと、それは神の愛と義に抵触し、イエスの十字架の意義を否定することにもなります。なぜならイエスはすべての人の罪を十字架で負われたのです(第一テモテ二・6、ヘブル二・9)。ですから私の感情がどうであれ、十字架を根拠として赦すことが合法なのです。もし赦さないと、そのことが新たな不義となり、神の恵みをブロックし、御霊が私たちの内で御業を開始することができないのです。言い方を変えますと、赦さないことによって、自ら御霊の癒しのタッチを拒絶して、その領域から御霊による愛と恵みを追い出してしまうのです。 (2)強迫性反復の悲劇 このような場合、不思議なことに人は同じ悲劇を繰り返します。本人は内に蓄積されている霊-感情観念複合体から突き上げるエネルギーの噴出を抑え切れず、加えてサタンや悪霊が"油"を注いでその噴出を煽り、内住の罪と肉は制御し得ないまでに刺激され、ほとんど破壊的とも見える深刻な罪へと陥ります。本人も制御し得ない衝動によって翻弄されるのです。それはあたかも内側に別人格が住んでいるかのような印象すらします。 例えば、レイプや性的虐待の被害を受けた女性が相手を赦さずにいる場合、自らも性的逸脱行動に陥り、しかも何度も同じパタンで男性を遍歴する悲劇を繰り返すのです。それは自分が失ったものを代償的に再獲得しようとする虚しい試みであり、また相手に対する憎悪が内攻して自分を傷つけるというやるせない行為でもあるのです。外見はきわめて貞淑に見える女性が、実は驚くべき罪に陥っているケースを私はしばしば観察してきました。これを専門用語で"強迫性反復"と言います。 これは個人レベルに留まらず、家系レベル、さらには国家レベルでも同じです。数世代に渡って不倫問題で家庭が崩壊したケースも知っています。最近では幼児虐待が多発していますが、虐待する親は必ず自らが虐待による犠牲者なのです。国と国の対立も同様です。血で血を洗う悲劇が世界の各地で繰り返されています。このようにして罪は反復されて伝播し、犠牲者を再生産してしまいます。アダムとエバの罪の結果、人類史上初めてカインがアベルを殺して後、そのような悲劇が無数に繰り返されてきました。被害者が被害者を生むのです。こうしてマタイ十八・21-35のたとえ話が現実のものとなるのです。 このような悪循環を断ち切るための第一歩が赦しです。イエスは十字架でその決定的な一歩を踏み出して下さったのです。私は単なる"自由・平等・博愛"や"人類は皆兄弟"などの道徳論・世界平和論には組しませんが、このブロックされたエネルギー複合体を解消し、霊的祝福を享受するための必要条件として、赦しはいくら強調してもし過ぎることはありません。 ■二、赦しのポイント 私たちはひじょうに深刻な傷を受けた場合、特に自分には何らの落ち度も責任もない場合、相手を赦すことはとても困難です。相手は裁かれて当然であり、私は純粋な被害者なのだから、相手が謝罪すれば赦してもよいと考えます。ここで大切な点は、この論理の本質にあるものは、「私は被害者である」という意識です。この世においても、キリスト教会においても、被害者はもっとも力のある加害者になり得るのです。"被害者"というラベルが"水戸黄門の印籠"になります。この立場にいるのは、実は快適なのです。多くの事件の被害者が自己憐憫の霊に取り憑かれて、延々と自分の悲惨を訴え続ける場面をよく見ます。ここにいることは治外法権領にいるようなものです。そこでは何でも発言でき、完全な守りがある領域なのです。 しかし本人は自分の悲惨を訴えれば訴えるほどに、実は自分自身を傷つけていることに気が付かないのです。自己憐憫は果てしなく自己増殖します。それは自分を傷つけ、さらには周囲の人々をも傷つけるのです。こうして原発性事件による傷のみでなく、周囲の人々をも巻き込んで、自己憐憫による傷を深くして行くのです。この自己憐憫の霊はきわめて強い影響力と破壊力を持っています。 ここで私たちは自分の感情にとらわれて、御言葉を無視するか、御言葉に従って相手を赦すか、という二者択一の場面に直面します。このように赦しは自分を取るか、御言葉を取るかという選択がきわめて明確に問われることなのです。自分はその事件の哀れな被害者(Victim)であるのか、何があったとしてもキリストにあって新しく造られた勝利者(Victor)であるのか、どちらを真の自分のアイデンティティとして選ぶかが問われるのです。前者を選ぶならば、人生を自己憐憫で消耗するだけでしょう。後者を選ぶならば、これまではどうであれ、今後地上の幕屋に留まる間キリストにある新創造としていのちにあふれた人生を送るでしょう(第二コリント五・17)。 (1)赦しは感情によらない 主は言われます:「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです」(マタイ十八・35)。この節の"心から"という単語に多くの人が引っかかってしまうのです。またよく言われる台詞に「赦しは忘却である」があります。これでまた葛藤を深めてしまう人が多いのです。すなわち、赦しとは"心から"するものであり、"忘れ去る"ことであるとして、自分が心から赦せないことと、忘れ去ることができないことで葛藤するのです。自分を見れば見るほどに感情は傷ついており、とても"心から"赦せる状態ではなく、忘れようとすればするほど、あの忌まわしい事件が思い起こされるのです。 ここで強調しておくべきことは、"心から赦す"とは"感情によって赦す"ことではありません。心については『フルコンタクト・ゴスペルH』で述べましたが、<心=感情>ではありません。ここで言う"心から"とは意志を用いて赦すことです。私たち人間の尊厳はその自由意志にあり、自由意志は心に反映されるのです。その時に決して感情を見ないで下さい。感情は傷ついたままでもよいのです。憎悪や怒りがあったままでも良いのです。ただイエスが赦しなさい、と言われるので、それに従って赦すのです。 マリヤはガブリエルの受胎告知に対して、最初は「どうして処女が子供を産みましょうか」と自己主張しましたが、「私は主のはしためです。どうぞお言葉どおりこの身になりますように」と言って、祝福を得ました(ルカ一・38)。ペテロも夜通し網を投げても収穫がなかった時にも、イエスの促しに対して「お言葉ですから、やってみましょう」と言って従いました。すると魚が網に一杯になったのです(ルカ五・4-6)。 おそらく両者とも感情や思いでは納得できなかったと推測されますが、意志を用いて従ったのです。これがポイントです。神が求められるのは、盲従ではなく、意志を用いた従順なのです。自分の意見とか感情はあってもよいのです。ただそれをひとまず下ろして、意志を用いて従うことです。これが"御言葉を行う"ことの具体的意味です。 |