ダイナミック・フリーダムI ―キリストにある自由の獲得― 要塞と呪いを取り扱う(1) 一人の違反により罪が世界に入り、その結果死が人類に広がりました(ローマ五・12)。神によって全地は呪われました(創世記三章)。私たちはアダムにあって生まれ、罪の奴隷として、律法の呪いの下にいたのですが、十字架による血の贖いの結果、信じる者はキリストにある者として、義の奴隷とされ、神の祝福の中に移されています。 しかし時に、祝福よりも罪と呪いがよりリアリティを持って迫るように感じられる場面があります。なぜでしょう。それは古い私の名残が要塞として残り、また呪い等の霊的束縛が存在するにも関わらず、知識と信仰の欠如による誤った対応をするためです。霊的成長には知識と信仰が不可欠です(エペソ四・13)。 ■一.要塞と呪いとは (1)要塞の構築の機序 (a)罪の習慣化と条件付け 神を知る前、霊的次元から切り離され、自分の肉体と魂による生き方のパタンが条件付けられて肉(flesh)を構成します。私たちの肉はある特定の領域において罪へと誘われる弱点を持っています。自分の弱さを感じる領域です。逆に強さを覚える領域でもあります。敵の誘惑のチャネルは、肉の欲、目の欲、生活の誇りでしたが(第一ヨハネ二・16)、その元になる諸欲求自体には何らの罪的要素はありません(第一テモテ四・3)。それらを自分の方法で満たそうとすることが情欲です。"情欲"は単に性的領域に限るものではありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑され、欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます(ヤコブ一・14,15)。 さて、ある特定の罪を繰り返し行っていますと、中枢神経系において条件付けされ、習慣となり、そのパタンが心の内に刷り込まれて人格の一部分を構成します。こうして人の心は悪いもので満ちるようになったのです(マタイ十五・18,19)。主観的にはその特定の罪から解放されることがきわめて困難に感じられます。悪いと分かっていても、逃れられず、自責感で悩むことが延々と繰り返されます。 この場合、意識の上では逃れようとするのですが、実は心の深くでそのことに愛着しているのです。私たちの心はよろずのものよりも偽ります(エレミヤ十七・9)。しばしば意識の表層に浮かぶものと、心の奥深くにあるものが食い違う場合が多々あります。自分が心から憎むことは容易に捨て去ることができます。 心の悩みや傷でも同じです。よく悩みや傷を何とかしてほしいと相談を受けます。話を聞いているとそこに一種の自己主張が観察されます。その悩みや傷がその人のアイデンティティに組み込まれ、ある種のプライドすら置いているのです。自己愛の一形態です。結局本人がそれを手離そうとしないのです。事実そのことを指摘すると、逆に怒りや攻撃を示します。これを専門用語で"抵抗"と言います。こうして個人レベルにおいて要塞が構築されていきます。 (b)霊-感情観念複合体 霊-感情観念複合体についてはすでに述べています。人生における様々の情緒的経験によって、私たちの肉の中には霊-感情観念複合体が構築されて、特に関係者を赦さないままでいると、そこにカセクト(給付)された精神的および霊的エネルギーが破壊的行動へと私たちを導くメカニズムも述べました。被害者が被害者を再生産し、罪が次から次へと伝播するのです。私たちは多かれ少なかれこのようなエネルギー複合体を抱えています。 この霊-感情観念複合体は、自己再生産する性質を持っています。すなわち親から子に植え付けられ、家系の中に代々継承され、さらに地域的レベルで共有され、ひいてはその集合体として国家の霊的特性を決定していきます。すなわち、互いに同種のものを抱えている者同士の間で一種の霊的共鳴現象を起こすのです(第一コリント十五・33)。カルトがその典型です。こうして互いの複合体にエネルギーを注ぎ合って、社会レベルでの要塞が構築されていきます。 日本の場合は特に"村八分"など表れているとおり、ある種の霊-感情観念複合体を共有し得る範囲で強固な共同体が形成され、共有し得ない人は容易に部外者とされてしまう傾向があります。例えば"天皇"もすでに制度の問題と言うよりは、霊-感情観念複合体として日本人の精神構造の深い部分に植え付けられた一種の要塞となっています。またキリスト教会でも、特定の教会において、その牧師とキリストの他に何か共有し得る要素のあるなしで、そこに残る者と排除される者が明確に選別される傾向があります。 (c)要塞の性質 "要塞"(第二コリント十・4-5)とは元々軍事用語ですが、一言で言えば、個人レベルまた社会レベルで繰り広げられている、神の恵みの領域とサタンの暗闇の領域の霊的せめぎ合いのコンタクト・ポイントを象徴しています。すなわち、それは私たちの肉を、個人レベルでも社会レベルでも、サタンが積極的に用いて、あらゆる神の知識と知恵、そして御言葉を無にしようと企てる拠点、あるいは勢力の集積点を意味します。彼はそこに自らの軍隊を配置して攻撃を仕掛け(エペソ六・16)、私たちの信仰を破壊し(第一テモテ四・1、第一ペテロ五・8)、御霊の働きを無効にしようと企てるのです(ガラテヤ四・29、五・17)。特に現代人においては、多くの場合肥大化した魂の思い(知性)の領域を通して要塞が表現されます(第二コリント十・5)。神の言葉を額面どおり受け取らず、その価値をおとしめる勢力はこの世にもキリスト教会にも存在します(第一ヨハネ四・3、第二テモテ四・3)。 (2)呪いの侵入 サタンの攻撃パタンは単純な暴力的なものから、私たちの思いを欺く巧妙なもの(第二コリント十一・3)、さらに意図的な霊的呪い・呪縛の類まで千差万別です(民数記二十二・6、ネヘミヤ十三・2)。人の霊は、罪の結果神に対しては死んでいても、存在しないわけではありませんから、いわゆる霊媒師に見られるように、暗闇の勢力とコンタクトすることは可能なのです。 個人あるいは家系の中にある罪のために悪霊のアクセスによる呪いの侵入を許し、それが代々継承されて、クリスチャンであっても欺かれるままにその呪いの束縛下にある場合もあります。さらにあえて占い、オカルト、ニューエイジ、ヘビメタ、ドラッグなどに関わって、その霊的影響下に自らを置いてしまうケースもあります。特に霊的にナイーヴであなた任せの"委ねたクリスチャン"は敵の格好の獲物になります。霊的な声によって怯え、霊的束縛を受けている人々の特徴は主体性の欠如と受動性です。 また私たちは自分の言葉で自分を呪うことがあります。言葉には霊的な力があります。イエスがイチジクの木を呪うと、その木は枯れてしまったのです(マルコ十一・13,20)。私たちの口にも同様の力があります(マタイ二十一・21)。私たちがつぶやいたり、消極的な言葉を吐くとき、それはただちに自分の霊に損傷を与え、自家製の呪いの下に自分を置くことを意味します(第一コリント十・10)。私たちは良い意味でも悪い意味でも自分の口の実を得るのです(箴言十二・14,十三・2)。 (3)その症状と兆候 (a)御言葉が自分とは無関係であると感じたり、無味乾燥感、無力感、絶望感を覚えたり、見かけ上の原因がないのに恐れや不安、また重苦しい抑鬱や圧迫を覚えることもあります。あるいは御言葉を否定する内的衝動に駆られたり、極端な場合、クリスチャンであってもイエスの御名と十字架に対する嫌悪や憎悪が見られます。特に幼児期に虐待を受けたり、レイプの経験があったり、あるいはカルトで聖書の言葉によって傷を受けた経験のある人では、そのような反応が顕著になります。 (b)ある特定の領域でどうしても信仰に立てず、誘惑が来ると負けてしまうとか、信仰が崩されてしまうとかの経験を多くのクリスチャンが持っているはずです。特に男女を問わず性的領域においてその傾向が顕著です。前述のカルトや性的虐待の経験者においては多くの場合、この領域において深刻な問題を抱えています。 |