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真理と経験のギャップについて
聖書の真理に関わるときに注意すべき点は、客観的真理と主観的経験の次元を明確に区別することです。神の御業はキリストによって完全に成就しています。しかし自分を見るときに問題が山積みしているのです。
実はこの真理と経験のギャップに悩む人がきわめて多いのです。その原因を過去のトラウマ、隠された罪、悔い改めの不足・・・と、延々と自分に帰して、かえって葛藤を深めるのです。「救いは信仰による」との知識を得ても、その恩恵に浴していないのです。時に「信仰」と言っただけで怒り出す人もいます。
このギャップを埋めるのは、神の側から見ると恵みであり、私たちの側から見ると信仰(応答)なのです。それ以外の何かでは決して埋められません。ヘブル書に「福音を解き明かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結び付けられなかったからです」(四・2)とあります。永井訳では「聞きし言に信仰を和(ルビ:ま)ぜざりしかば」と言います。
聞いた言(ロゴス)に信仰を混ぜることによって、それはレーマとして実際的に経験されます。また霊でありいのちとなるのです。この時御霊によって、神の恵みの領域すなわちキリストにあって(In
Christ)、真理が経験となるのです。<客観的真理+信仰=主観的経験>が成立します。私たちの信仰は、化学反応における触媒(=反応促進物質)の働きをします。
ここで大切なのは、受胎告知を受けた時のマリアのように、一度は「どうして処女が身ごもりましょうか」と異議を唱えつつも、神の言葉を聞くと、ただちに「私は主のはしためです、どうぞお言葉どおりこの身になりますように」と祈ることです。これが自分を否むことです。すると無から有を呼び出す神の言葉は必ず実現します(ローマ四・17、イザヤ四十六・10)。
ただし注意して下さい。「信仰があれば、問題は解決される」のであれば、「問題が解決されないのは、信仰がないからだ」(対偶)と言って、困難の中にある人に、さらに重荷を負わせてしまうケースが多いのです。論理にはパラドックスがあります。例えば「太郎君は叱られないと、勉強しない」が正しいときに、形式的に対偶をとると「太郎君は勉強すると、叱られる」となります(アレ、何か変ですね、正しくは・・・ご自分で考えてね)。大切なのは原因を分析することではなく、その人の意識をイエスに向けさせ、御言葉を語ることにより、信仰を息吹くことです。
(5)
古い人の死と魂を否むことについて
私たちの「古い人」はキリストと共に十字架につけられました。ところがしばしば「自己にあって死ぬ」ことや「自我を砕く」ことを努め、葛藤する人がいます。ますます自己が生きてきます。なぜならその試みそのものが、自己にベクトルが向いており、魂を否んでいないことの証拠なのです。
真理は、アダムにあって継承した神を拒否し独立独歩してきた私たちの「古い人」はすでに死に、神を求め御霊に頼りつつ生きる「新しい私」を得ているのです。聖書にそう書いてあるので、そう信じればよいのです。簡単です。あなたがこうして『リバ新』を読み、真理を探究していることがその証拠です。
経験的に言えば、かつては内住の罪(Sin)の唆しに容易に反応して罪(sins)を犯していたのに、自己の死が実際となるとき、罪に反応しない自分を見出すのです。あるいは以前ならば容易にパニックに陥る場面でも、魂が影響されず、不思議な平安と安息に留まる自分を見出すのです。「死」は自己のすべての機能の終焉ですから、深い平安と安息をもたらします。
しかしながら、その「死」によって、私たちの自己意識や記憶の連続性が絶たれるのではありません。また魂の諸機能を停止させて、自己意識が消失し、別人格になるわけでもありません。「今や生きているのは私ではない、キリストが私のうちに生きておられる」(ガラテヤニ:20)のですが、同時に「今肉にあって生きている私」とあるとおり、私も生きているのです。
神は決して私たちの自由意志を侵しませんから、私たちが自らの意志によって明渡した領域においてのみ、御霊はキリストを証しして下さるのです。その領域においては、私はあたかも傍観者のように「御子の信仰によって生きる(原語)」(同)のです。
魂の特徴は自己主張と自己保存にあります。要するにメンツと自己弁護です。この世はこれらで成り立っています。そこでしばしば私の意志と御霊の意志が対立するのです。この意味で「自我が砕かれる」必要があるのです。「自我」という用語の使い方には十分な注意が要ります。イエスは、「自分の十字架を負って、わたしに従いなさい。自分の魂(原語)を救おうとする者はそれを失い、失う者は得る」(ルカ九・23,24など)と言います。
しかし御霊は、私たちが盲目的であまりにも頑なな場合、主権の範囲内においてある種のトラウマ的事態を許され、私たちの魂を取り扱われます。魂はそれまでの取り繕い(自己防衛機制)によって、その内部が錯綜していますから、ある一定の取り扱いの期間が必要です。しかし御霊はすべてご存知です(1コリント二・10)。闇の中で神を待ち望むならば、必ず光が来ます(ルカ一・78、79)。その時保留していた領域を見、そこを明渡し、代わりに素晴らしい平安と安息、また解放感がもたされるのです。
端的に言って「自己を否む」とは、私たちの意識野における「注意」のポイントが自己から離れ、イエスに向うことです。自転車でも手元を気にすると倒れますが、前を注意して法則に乗れば転ばずに走れます。法則に任せれば、手放しもできます。
実は禅でもここが問われます。例えば天才道元はその名著『正法眼蔵(ルビ:しょうぼうげんぞう)』の「現成公案(ルビ:げんじょうこうあん)」において「仏道をならふとは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心、および佗己(ルビ:たこ)の身心をして脱落せしむるなり」と言っています。仏道の目的は、意識が自己から離れて、ただ万法(法則)に任せることである、と言うのです。自己努力を止め、意識が自己から離れる経験を道元は「身心脱落、脱落身心」と表現しています。またこの生き方を親鸞は「自然法爾(ルビ:じねんほうに)」と言います。
そこでカトリックにはパウロと道元や親鸞の共通性を論じる方々もおられます。確かに精神と身体の次元では同じ経験と言えますが、霊的次元あるいは委ねる法則がまったく異なります。
さて、しばしばカルトでは「自己否定」と称して、「自分で考えてはならない」(思考停止)と誘導し、既述の「受動性」を作り出して、マインド・コントロールがなされます。(影の声:時に牧師も信徒に対して少しはこのテクニックを用いているかも?)彼らは個性を否定し、一見してメンバーが同じような臭いを醸し出すようになります。
しかし神は私たちの個性や自由意志を消滅されるのではありません。私たちが御霊の愛の促しに応じて、自ら御霊に服することを願われるのです。本来それはきわめて甘美にして安らかな経験なのです。
私たちの魂が生まれつきのままであるならば、私たちの霊も魂によって固く閉ざされてしまい、内なるキリストの霊的ないのちが流れ出ることができません。主は「一粒の麦が地に落ちて死ななければ・・・」と言われました。その麦粒と同様に、私たちの魂も表面がツルツルであるならば、固い殻の内に秘めたられた霊のいのちが解き放たれないのです。霊のいのちは、魂の破れ(=傷)から流れ出るのです。
こうして霊から独立する性向のある魂は、自ら死ぬごとに、御霊の制御の下で機能し、また魂をドライブするエネルギーも御霊由来のものに置換されていきます。つまり魂を満たすいのちの交換がなされるのです。エンジンは同じでも、燃料が変わるのです。
こうして思い(mind)から開始されたこの再構成の過程は、意識と無意識の領域におよび、イエスの内的経験が私たちの内で再現されるようになります。キリストの形がつくられるのです(ガラテヤ四・19)。これがクリスチャンの霊的成長です。
このような観点から、私は昨今の「傷つき回避症候群」や即効性を謳う「ヒーリング」がキリスト教会にも蔓延していることを憂慮します。傷つくことや苦しむことが悪であるかのような霊的雰囲気は、むしろ御霊の主権を侵し、その御業を阻害するのです。(つづく)