ダイレクト・カウンセリング【最終回】

真理は人を自由にする

―聖書のパースペクティブ―



Get The Basic

これまで神、人、サタンの霊的ダイナミクスから人の問題の原因を説いてきました。多分皆さんのいわゆる「カウンセリング」のイメージと相違したことでしょう。ダイレクト・カウンセリングは何ら新奇なものではなく、真理の再発見と信仰によるその適用です。迷える方々は、当たり前が当たり前でなくなっています。当たり前の生の中に、"インマヌエル"なる神がいて下さるのです。「基本に忠実であれ」とは常に真理です。

また彼らの特徴はそれぞれに色眼鏡をかけていることです。よって世界や、人や、御言葉や、神の像が着色され歪むのです。それに基づく行動によりさらに問題をこじらせます。主イエスの言葉どおり、自分の魂を否み、色眼鏡をはずし、ダイレクトに御言葉と対峙するのです。


チャレンジ

聖書の究極のメッセージとは何でしょう。哀れな罪人を救うことでしょうか。私たちの傷が癒され、悩みから解かれることでしょうか。ここにチャレンジを置きます:「私が、私は、私の」を否むべきです。

自分を第一にする限り、キリストによる真の平安と安息、自由と勝利を味わえません。救いは自分の問題において訪れました。しかしそこに留まり続けるべきではありません。自分を否み、神の必要と満足を第一することに重心を移すのです。私たちはキリストの共同相続人として、神の資産を受け継いでいます(ローマ八・17)。その保証、担保が聖霊です(第二コリント一・22、エペソ一・13,14)。キリストにある幼子(child)であり続けず、息子(son)として御父の宇宙的事業に参加するのです(第一コリント十三・11)。

究極は、自己かキリストか、の二者択一です。自視点から神視点への転換―ここに霊的成長の鍵があります。


夫と妻の奥義―キリストと教会

神がアダムを造られた時、彼は一人でした。神は彼に助け手を与えるため、アダムを眠らせ、その脇腹の骨からエバを造りました。アダムは「これこそわたしの骨の骨、肉の肉」と彼女を愛し、慈しんだのです(創世記二23,24)。しかしそのエバへの愛によって失敗しました。その結果、いのちの木への道が封鎖されたのです(創世記三・24)。

時至りイエス・キリストは罪の肉の様で遣わされ、罪とされ、その肉において罪を処罰されました(ローマ八・3、第二コリント五・21)。また私たちの古い人も十字架につけて下さったのです(ローマ六・6)。それは贖いのためであり、ブロックされたいのちへの道を開くためでした。

イエスは復活した週の最初の日の夕方に、「聖霊を受けよ」と弟子たちに息を吹きかけました(ヨハネ二十・22)。イエスの息吹きは霊であり、いのちです。これは復活のキリストのいのちを弟子たちに吹き込むことでした。それに対してペンテコステの日の聖霊の注ぎは、父の約束である上からの力の注ぎでした(使徒一・8)。御霊の注ぎについては、内なるいのちの満たしと、外なる力の満たしの二面があります。

教会は御霊によってキリストのいのちを吹き込まれた存在であり、キリストの体です(エペソ一・23)。教会は一人の新しい人です(同二・15)。私たちはその器官です(第一コリント十二・27)。教会とはエクレシア、即ち「召し出された者たち」です。私たちはこのキリストの体にバプテスマされています(第一コリント十二・13)。地上で頭なるキリストの意志を行うべく、各地に燭台として植えられた存在がいわゆる地域教会です。クリスチャンの一致の根拠はキリストの体にあります(第一コリント十二・20)。

眠らされたアダムの脇腹の傷から取られた骨によってエバは誕生し、眠らされたキリストの脇腹の傷から流れた血と水を通して、キリストの霊によって教会は誕生しました。エバはアダムと、教会はキリストといのちを共有しているのです。パウロは「人が妻と一つになる」ことは「偉大な奥義」であり、「私はキリストと教会について言っている」と書いています(エペソ五・31,32)。私たちは花婿キリストに嫁がされたのです(第二コリント十一・2)。アダムとエバはキリストと教会の予型です。現在私たちは傷もしみもない花嫁として整えられ、完成される過程にあります(エペソ五・26,27)。第一の人アダムはエバを愛し慈しみましたが、失敗しました。第二の人イエスは、死と復活の勝利にあって、教会を愛し慈しんで下さるのです(エペソ五・25)。


神の臨在の奥義―至聖所(霊)

神は旧約時代には幕屋や神殿の秘められた至聖所に御臨在されました。そこには年に一度大祭司のみが入ることができたのです。その形状は完全形である立方体でした。新約の私たちも地上の幕屋に留まる者ですが(第二コリント五・2)、神の神殿であり(第一コリント三・16、六・19)、私たちの奥深くの至聖所なる霊に神は御臨在されます。すでにイエスがその肉体を裂かれ、真の至聖所に至る生きた道を開かれたので、私たちもイエスの血によって大胆に至聖所に入ることができます(へブル一〇・19)。それは天の至聖所と直結する私たちの霊です(エペソ二・6)。霊において神を礼拝するのです(ヨハネ四・24)。この再生された霊は立方体のようにすでに完全です。神は私たちの霊から御業をなします。

霊でその御臨在に触れるとき、私たちの顔はモーセのように輝きます。モーセの顔の栄光は消え去っても、私たちの顔の栄光は永続します。モーセは死をもたらす務めに仕えましたが、私たちはいのちをもたらす務めに与ります(第二コリント三章)。私たちは、燭台である地域教会として、各地にあってその栄光を輝かすのです。旧約時代に隠されていた神の御臨在は、現在教会において、いのちの光の輝きとしてこの世に証しされます。

そして黙示録二十一章では、新エルサレムが花嫁の準備を整えて、天から下り、小羊との婚姻が行われます(二節)。新エルサレムは至聖所と同じ立方体です。とてつもなく大きい立方体です(黙示録二十一・16)。新エルサレムとは何でしょうか。答は黙示録三章12節にあります。「勝利を得る者はわたしの神殿の柱とし・・・、新エルサレムの名を与える」。それは勝利を得る者たちです!これは人間の思いを超えます。

この新エルサレムにはもはや神殿はありません。なぜならそれ自体が至聖所であり、神の御臨在だからです(黙示録二十一・22)。月も太陽もありません。神の御臨在で輝いているからです(同二十一・23)。現在教会において輝く神の栄光は、新エルサレムでは輝きが何万倍にもなります。もはや隠されていません。神の御臨在によって輝く存在、これが新エルサレムです。現在、花嫁準備中の教会が傷もしみなく完全にされた究極の姿なのです。小羊と新エルサレムの婚姻により、神と人が共に住む、神の幕屋が人と共にある、という究極の祝福が成就します(同二十一・3)。

イエスはいのちの光を輝かすために一人の人として幕屋を張りました(ヨハネ一・14、原語)。そのイエスのいのちを受けた私たちもその光を輝かします(ローマ九・23)。その究極に神がダイレクトに人の間に幕屋を張られ、神と人が共に住むのです。これこそが新天新地において実現する神の究極のプランです。


私たちの栄光ある地位と嗣業

しばしば私たちはエデンの園の回復を願いますが、実は私たちはそれ以上を得ています。即ちアダムとエバが失ったいのちと御国を得たのです。これこそいにしえの信仰の偉人が得なかった神の嗣業です(へブル十一・39,40)。今はまだおぼろげですが、その日には私たちの得た嗣業の偉大さを、何の覆いもなしにダイレクトに手にします(第一コリント十三・12)。神は単に哀れな罪人を贖ったのみでなく、ご自身の住まいとして、夫と妻として、共に愛といのちの関係に生きるために召して下さったのです。

神格の父、子、聖霊の愛の交わりに、御子が人性を取られたゆえに、私たちもその人性を通して、共に与ることができるのです(第一コリント六・17、第一ヨハネ一・3、六・17)。この神の召しは私たちの制限された思いをはるかに超えます。それは神が私たちの内において安息し、愛と平安とにあって、私たちと共に住まうためです(エペソ二・20,21)。私たちの内の平安と安息の領域が増し加わるほどに、神は御住まいを得られ、御国が拡大されるのです。これが私たちの得た究極の祝福であり、イエス・キリストが十字架で勝ち取ってくださった私たちの地位と嗣業です(ローマ八・17)。

どうか栄光の父が、知恵と啓示の御霊を下さり、私たちの受け継ぐものがどのように栄光に富んだものであるか、私たちの心の目が見えるようになり、また知ることができますように、アーメン(エペソ一・17-19)。God bless you!

最後に本セミナーを御提案下さった横浜港南キリスト教会石川牧師御夫妻、本連載の機会を下さった谷口社長、テープを起こして下さった桑谷記者に主にあって深く感謝いたします。


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