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今回は罪と肉に関する神の解決法をさらに見ていきます。
肉との関係
クリスチャンはよく「イエスが私たちの罪を負って下さったから私は赦されている」と言います。事実その通りなのですが、実はもう一歩先があるのです。あの十字架で終わらされたのは、私たちの罪々だけでなく、私たちの古い人もです。神から離れて独立独歩で生きてきた古い人は、イエスと共にすでに死にました(ローマ6:4)。終わったのです。
ただし、古い人の生き方、あるいは感じ方・価値観などの痕跡はまだ残っています。それが前回も説明した肉です。油断しますとクリスチャンになった後もついこの肉が出てしまいます。私たちの大脳と中枢神経系に条件付けされているからです。
けれども決してその肉と戦ってはいけません。なぜなら「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉をさまざまな情欲や欲望とともに十字架につけてしまった」(ガラテヤ5:24)からです。時制は過去形です。私たちは「肉に対して責任を負っていない」のです(ローマ8:12)。イエスを信じた時、あなたは自分の肉をすでに十字架につけてしまったのです。ですからこの肉を改善したり矯正する必要はありません。自己努力やサイコセラピーで何とかしようとすると、ますます肉はかき立てられます。
例えば日本人に多い対人恐怖症や強迫観念などの強迫神経症は、何かを意識しまいとするとかえって意識して果てしない葛藤に陥る病態です。面白い例では自分の鼻の頭が見えてしまって気になるので、何とか見えなくなるように努力して、ついには仕事が手につかなくなる人もいます。鼻の頭を見えなくする修業は無駄なことです。ますます意識されるだけです。
同じように、もし肉が疼いても「また肉が出た。しかしこれはすでに終わっている」と信じ、御霊に頼れば良いのです。肉は直ちに沈静されます。御霊は体の行いを殺します(ローマ8:13)。ポイントは肉の疼くままに罪に自分自身を委ねるか、御霊に頼るかです。
「私」からの解放
一度数えてみてほしいのですが、ローマ書七章には「私」という言葉が二十数回出てきます。つまりパウロは自分自身を見て自分と格闘しているわけです。自意識こそ人間存在のあらゆる苦しみの根です。自分を見たところで、残っているのは肉だけです。「インナーチャイルド」なども肉の内にブロックされていた感情に過ぎません。自分の内を探索することにより自分に注意を集中する結果になり、それが新たなボンデッジになります。ある人は「もう過去を探ることに疲れた」と告白しました。神から離れて生きていた自分の痕跡、何も良いものが住んでいない自分を見つめることは暗闇です。何の希望もありません。結局自分の中に自分を閉じこめることになるのです。ですからパウロは「私は何と惨めな者か」と叫んでいます(ローマ7:24)。
しかしそう言った直後、突如パウロは「神に感謝します」(同:25)と叫びます。それはただ「主イエス・キリストのゆえに」です。このときパウロは自分から目を離したのです。ところがその勝利の告白のすぐ後に「私は思い(原語)では神の律法に仕えながら、肉では罪の法則に仕えている」と告白します。一見矛盾する告白ですが、クリスチャンの経験には「御霊において」と「肉において」の二律背反性があります。つまり彼はいぜんとして肉では罪の法則に仕えながらも、自分自身から目を離すときに、キリストにおける神の救いと解放を見出すのです。
そして七章とは対照的に八章には「御霊」が二十数回出てきます。これが鍵です。すなわち「自分にある」から「キリストにある」への転機です。私たちはクリスチャンになった後も罪(sins)を犯します。様々な状況において罪(Sin)やサタンの唆しによって肉が刺激されると、どんなことでもする可能性があります(1ヨハネ1:8)。そして罪を犯すと自分自身を責め、葛藤し、傷ついて、自己努力やカウンセリングなどで何とかしようと試みますが、それは不要です。パウロはそのことに捕らわれませんでした。自分自身から目を離し主イエスを見上げることで、「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1)と大胆に宣言し得たのです。
イエスから目を離さない
あなたのあらゆる重荷は、あなた自身が負うべきではありません。イエスがすでに十字架で負って下さり、すでに終わっているのです。トラウマがあり傷ついている自分も終わっています。極端な言い方をすれば、癒される必要もありません。古い人はすでに新しい人と置き換えられているからです。自分は駄目だと言っている人は、大脳の記憶にある自分の痕跡を見ているのです。
しかし大脳の記憶に残っている痛みも自動的に癒されていきます。例えば体に切り傷を負っても自然とかさぶたができて、傷をふさぐでしょう。それを「治っただろうか」といちいちはがして確認していたら、いつまで経っても治りません。かさぶたができたなら、自然に取れるまで放っておけば良いのです。それは体の治癒力に対する信仰の問題です。
心も同じです。いろんな傷を受けてきたかもしれませんが、イエスを見出したのならば、イエスに心を注ぎ出し、イエスだけに目を留めていれば良いのです。十字架のイエスを思って下さい。自分を見つめたり、過去を探ったりするから、かえって痛みが意識されるのです。必要があれば御霊が時期を得て忘れている過去も思い出させて下さいます。真のカウンセラーである御霊があなたの内にすでに居て下さり、愛を注いで下さっているのです。内住の御霊に頼り、イエスを仰いで生きましょう。イエスも「自分の魂(原語)を自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分の魂を失う者はそれを得る。」と言われます(マタイ10:39)。これが神の解決法です。自分から離れる。イエスに始まりイエスに終わる。簡単です。
ヘブル書でも「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(12:2)と勧めています。ある英訳では「look
off to Jesus」です。「off」とは離すという意味です。自分からoffして、イエスへtoする。つまり過去やトラウマなどを見続けてきた今までの生き方を悔い改めるということです。悔い改めとは「私はこんな悪い人間で、後悔ばかりです」と言うことではなく、原語の意味は「思いの向きを変える」ことです。自分からイエスへ方向転換することです。すると心の傷や精神的な病に対する神の備えた自然治癒機制(メカニズム)が働き出します。
ただし、対人関係における問題については「赦し」を実行してください。赦すことは感情ではなく意志の問題です。たとえあなたの感情が痛んだままであっても、そこから目を離してください。感情がどうであれ、神はあなたの意志による決断を信仰の行為として良しとして下さいます。自分を傷つけた人がいるならば、感情はそのまま置いといて、とにかくその人の名前を出して「赦します」と宣言してみてください。すると今までブロックされていた神の愛が御霊によって注がれるでしょう。
真理はあなたがたを自由にする
とイエスはおっしゃいました(ヨハネ8:32)。クリスチャンはみな新しい私を持っているのです。創世記でブロックされた命への道をイエスは開いたのです(ヨハネ10:9,10)。信仰によってその新しい命にあって生きるのです。命の御霊の法則に任せるのです(ローマ8:2)。最初は補助輪のついていない自転車に初めて乗ったときと同じように怖いですし、転ぶかもしれません。しかし何度転んだとしても、また立ち上がってください。そうやって乗り続けていくうちに自然と走れるようになります。法則に対する信仰が養われて、その法則に任せることができるようになるからです。
もう一度ローマ八章一節の御言葉を見てみましょう。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」この言葉をにぎって自分から目を離し、イエスを見つめてください。これがダイレクト・カウンセリングの要です。