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御言葉で再構成される
前回、精神は言葉でできていることをお話しました。問題はその言葉が誰の言葉であるか、です。私たちの魂は神の言葉で構成されるべきです。「思いを新たにされることにより造り替えられなさい(原文)」とあります(ローマ十二・2)。まず意識のレベルから始まって無意識のレベルに至るまで、真理である神の言葉によって再構成されるのです。
さらに魂を駆動するエネルギーも、コンプレックス(霊・感情観念複合体)に蓄積されたものでなく、御霊が注ぐ霊的ないのちのエネルギーに置換される必要があります。霊・感情観念複合体は聖書では「要塞」と言われますが(2コリント十・4)、そこにブロックされているエネルギーを解放するのはサイコセラピーではなく、御霊の剣である神の言葉なのです(エペソ六・17)。
そこで今回は真理を信仰によって実体化し、自分自身に適用し、思いを変革する手がかりを学びたいと思います。再びネヘミヤ記を通して見ていくことにしましょう。
とりなしをして下さる御霊
神殿が再建された後も、エルサレムの城壁が崩れたままであることを聞いたネヘミヤは、「すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って、言った。『ああ、天の神、主。大いなる、恐るべき神。主を愛し、主の命令を守る者に対しては、契約を守り、いつくしみを賜わる方。どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。」(ネヘミヤ一・4-6)と嘆き悲しみ、祈りました。
これこそ私たちが様々な人生経験を通して受けた魂の傷に対する聖霊の感情と祈りです。神は私たちのトラブルや傷に対して、このネヘミヤの祈りをもって関わって下さる憐れみ深い方なのです。
ネヘミヤは祈りの中で、まず第一にイスラエルの罪を告白し、その上で神に嘆願をしました(同・11)。これが御霊のとりなしの祈りです(ローマ八・26,27)。この御霊の気持ちを知り、そのうちに身を委ねて下さい。
当時ネヘミヤは献酌官として王に仕えていましたが、それまでにない憂鬱な顔をしていました。それを見た王は心配して理由を尋ねました。当時は王の気分次第で人の生死が左右された時代です。ネヘミヤは恐れながら事情を説明し、エルサレムの城壁を再建させてくださるよう嘆願しました。ここでの王は父なる神を予表しています。このように御霊は私たちのために父にとりなして下さるのです。
王は快くネヘミヤを送り出します。その際ネヘミヤが王の権限を委譲されて出て行った点が大事です。御霊もイエス・キリストが父から受けたあらゆる権威を証しするために、それを伴って来て下さいました。そしてその権威を敵に対して行使しつつ、現在崩れている私たちの魂を再建して下さるのです。
この慰め主との個人的な交わりは甘美にしてなめらかであり、まさに内側を潤す油です(1ヨハネニ・27)。ささくれ立ってひび割れた皮膚にモイスチャクリームが塗られるように、傷ついた心に聖霊の油が塗り込まれるのです。愛、喜び、平安、安息、自由、癒し、解放など全ての成分がこの油には含まれています。御霊はイエスの言葉・わざ・パースンを私たちの内に証し、実体化して下さるのです。御霊の御臨在はイエスの御臨在を意味し、そこには自由があります(2コリント三・17)。そのイエスによる癒しのタッチを受けるのです。
ここで大切な点は、もしあなたが自分の感情に囚われて、自分は解放されていないと告白するならば、たとえ意図しなくてもイエスの言葉を否み、イエスを偽り者にしてしまうことになるのです。こういった訴えは真理(truth)と事実(fact)を混同することから生じます。確かにあなたの目の前には駄目な自分がいて、病も傷もまだそこにあるかもしれません。それは事実です。しかし真理は「あなたは聖とされ完全だ。自由とされている」と言っているのです(ヘブル十・14;ヨハネ八・36)。
真理を聞いて信じるか、それとも事実を見て信じるか、二者択一です。アダムとエバが、いのちの木と善悪知識の木を目の前に置かれて選択を迫られたように、今日の私たちも信仰によるいのちと祝福の道と、自己努力による呪いの道のどちらかの選択を迫られているのです。人生は選択の連続です。私たちはどちらを選ぶべきでしょうか。もちろん神の真理を選ぶべきです。私たちはいろいろな問題を抱えているかもしれません。しかし真理が事実に屈することはないのです。全ての罪が赦され、病が癒されていることをただ信じればよいのです。すると事実の方が真理に合致するように変えられていきます。
時にあまりにも深い傷を負っている人は、その感情がブロックされているために、実感を伴って信じることが困難と感じられるでしょう。その場合は焦ったり、もがいたり、自分を罪定めしたりせず、まず神の言葉を聞いて下さい。神の言葉に浸って下さい。神は私たちの心よりはるかに大きい方ですから、すべてを理解して下さいます(1ヨハネ三・20)。御霊に触れられるうちに信仰は自ずと目覚めます。
谷の門と蛇の池
エルサレムに到着し、城壁の視察ツアーを始めたネヘミヤは、まず谷の門を通っていきました。この外には子供を犠牲のために焼くなど残虐なことが行われたヒノムの谷があります。このヒノムの谷が象徴しているのは罪に満ちたこの世です。
ここでおもしろい点は、ネヘミヤが視察ツアーを始める前に三日間の滞在期間を取った点です。イエス・キリストも三日目に蘇りました。つまり谷の門を視察することは、罪に満ちたこの世の有様を思い起こすと同時に、三日の滞在、すなわちイエスの復活後はそれらの過去は全て終わったことを知ることも意味します。イエスは十字架上で「完了した」(ヨハネ一九・30)と宣言しました。ですからあなたの忌まわしい過去はすでに終わっていることを谷の門で確認するのです(2コリント五・17)。
次にこのヒノムの谷の端に蛇(竜)の池がありました。蛇はご存知のようにサタンの象徴です。ここに来て水を飲もうとする者は蛇にかまれて死にます。同様に心の渇きを満たすために、この世に出て行ってこの世の水を飲もうとすると、裏切られ、傷つき、ますます渇きます。
イエスは水を汲むためにやって来たサマリヤの女にこう言いました。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ四・14)
彼女は五人の男性と次々に結婚し、現在は六人目の男性と同棲していました。イエスは「あなたはアダルトチルドレンだ。愛情に対する飢え渇きを男性によって満たそうとしてきたが、何度も裏切られた。あなたの内の傷ついたインナーチャイルドのトラウマを癒してあげよう」とは言われませんでした。「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と、女の問題の核心にずばり切り込んだのです。
自分の本質を突かれて驚いた女が、「私には夫はいない」と答えたとき、イエスは「その通り。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは夫ではない」と全てを暴きました。そしてイエスは永遠のいのちの水を提供するご自身に導いたのです。まず人の問題の本質を指摘し、真の必要の満たしとして、決して渇くことのないいのちの水を提供する。これがイエスの方法であり、ダイレクト・カウンセリングです。
さらにイエスは「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。信じる者がみな人の子によって永遠の命を得るためです」(ヨハネ三・14)と言いました。旧約時代、蛇の毒(罪)で犯されても、竿の先につけられた青銅の蛇を見上げた者は癒され、生きました(民数記二十一・9)。聖書で青銅は神の裁きを意味します。イエスも同様に罪(毒)はなかったのに、罪の肉の様で青銅の蛇として十字架にあげられました(ローマ八・3)。このお方を見上げるとき、私たちはいのちを得、その新しいいのちにあって生きるのです。イエスはその死と復活によって、すでに死の力を持つ蛇であるサタンの頭を砕いたのです(創世記三・15;ヘブルニ・14)。蛇の池はこれらのことを確証します。