ダイレクト・カウンセリングE

いのちの御霊の法則を適用する




糞の門

エルサレムの状況視察ツアーにおいて、次にネヘミヤが訪れたのは糞の門です。この門からは、文字通り人間の排出物やゴミなどが排出されていました。つまりここは汚れの排出を象徴しています。

私たちは客観的事実として、キリストの血によって罪(sins)を赦され、罪(Sin)・サタン・この世からも解放されました。それが主観的な経験とされるのがこの場所です。私たちはここで罪を告白し(1ヨハネ一・9)、イエス・キリストの血潮によって汚れた良心をきよめていただくのです(ヘブル九・14)。

悪魔(中傷する者の意)は私たちの大脳に残る古い自己の痕跡や記憶を掘り出して、罪定めしようと様々な声をかけてきますが、その声を聞いてはいけません。精神的病の原因は多くの場合この罪定めの感覚です。良心の呵責、罪責感はガンのように心をむしばみます。

私たちは、十字架上で「父よ、彼らをお赦し下さい」と言われたイエスの声に聞き従うのです(ヨハネ十・16)。イエスはただ一度罪(sins)のきよめを終えて、今や大祭司として真の天の至聖所に入りました。私たちの罪はすでにクリアにされています(ヘブル九・25,26)。この方はご自分に近づく者を完全に救うことができます(ヘブル七・25)。

ある人々は、ある種のミニストリーによって、「問題が解決しないのはまだ悔い改めが足りないからだ」とか「あなたには隠れた罪があるから癒されない」と言われて、ますます内向し、その闇の中に落ち込んでいます。それは誤りです。自分で内側を探ってもそこは闇です。真に自分を見るのは、御霊の霊的な光が当る時です。その照明によって明らかになったことを処置すればよいのです。

聖書の語る「告白」とは「同じことを語る」という意味です。罪々を言い表すと同時に、神の言葉も語るのです。聖書には「罪を言い表すなら、赦され、清められる」(1ヨハネ一・9)とあります。この御言葉に同意して、語り出すのです。するとこの言葉が経験となり、良心の呵責も消えます。


泉の門と王の池

次にネヘミヤがやって来たのは泉の門です。そばには王の池(別名シロアムの池)があり、泉が湧いています。「水」とは私たちを聖なる者として整えて下さる御言葉を意味します(エペソ五・26)。つまりシロアムの池には、いのちの水の尽きない供給があり、私たちを潤します。

イエスは「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがなく、その水はその人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出る」(ヨハネ四・14)と言われました。私たちはすでに内側にいのちの泉である御霊を持っているのです(ヨハネ七・38、39)。そこから生ける水の川々が流れ出るのです。

こうして内側はいのちと平安の感覚で満たされます(ローマ八・6)。するとさらに御霊は光を送り、問題を明らかにして下さいます。こうして<光→告白→血による清め→良心の呵責の消失→いのちと平安→光→・・・> という「いのち増殖サイクル」に入り、イエスが言われた「いのちを豊かに持つ」(ヨハネ一〇・10)ことが実際の経験になります。


癒しと再建における御霊の働き

次に御霊の働きを見ていきましょう。御霊の第一義的な機能は、私たちの内に住まわれ(ヨハネ十四・16)、イエスの言葉と業、そのパースンを私たちの内で証し、実体化することです(ヨハネ一四・17〜20、26;十六・13〜16)。また御霊はいのちを与えます(ヨハネ六・63;ローマ八・6)。このいのちが心を癒すのです。しかもこの内住の御霊は人の心の奥底を探る方です(1コリント二・10〜16)。ですから精神分析家の所ではなく、この方のもとへ行きましょう。御霊は油塗りによって、あらゆることを教え、導いて下さり、その教えはすべて真理です(ヨハネ一四・26;十六・13;1ヨハネニ・27)。

同時に御霊は罪と死の法則から私たちを解放し(ローマ八・2)、体の行いを殺し(同13節)、肉を処置して下さいます(ガラテヤ五・16)。このいのちの御霊の法則に自分を委ねてください。最初はどう委ねるか分からないかも知れませんが、自分から目を離し、パウロのようにイエスを求め続け、前進し続けましょう。すると自然と自転車に乗れるようになるのと同様に、いのちの御霊の法則をとらえられるようになります。そのとき御霊は律法をまっとうし(ローマ八・4)、死ぬべき体をも生かして下さいます(ローマ八・11)。この体はまだ古い体であり、贖われていませんが、その体にもいのちを与えて下さるのです。

また御霊は私たちが子であることを証して下さいます(ローマ八・15、16)。さらにどう祈ってよいか分からない私たちのために、うめき、とりなしの祈りもして下さるのです(ローマ八・26、27)。そして御霊は勝利を実体化します(ローマ八・37)。イエスの死と復活に私たちも同一視されて(ローマ六・4、5)、客観的なイエスの勝利が、あらゆるトラブルの中で私たちの主観的な勝利となります。


再建を妨げる要因

しかし、この再建の過程では妨げる要因もあります。ネヘミヤ記では、トビヤとサヌバラテといった人物が登場し(ネヘミヤ四、六章)、ネヘミヤの働きを中傷し、脅しをかけました。私たちも人々やサタンからこのような妨害を受けますが、キリストの勝利に堅く立ちましょう。サタンはすでに頭を砕かれ、歯の抜けたブルドッグのように吼えるだけです。

私たちの肉もまた邪魔をします。ネヘミヤ記九章を見ますと、肉に従った結果の刈り取りの様子が描かれています。しかしすでに申し上げているように、私たちはこの肉をすでに十字架につけてしまっているのです(ガラテヤ五・24)。

さらにこの世が妨げます。当時のユダヤ人たちも異邦の女と結婚をして、霊的姦淫を犯しました(ネヘミヤ一三・25)。私たちもついこの世に惹かれますが、私たちはこの世に対して互いに十字架につけられていることを信じましょう(ガラテヤ六・14)。魂の再建にはこれら三つの妨害要因がありますが、御言葉に従って対応すれば勝利は確実です。(注・ネヘミヤ記自体の詳細は既出のJack Hayfordを参照のこと)


具体的実行とまとめ

最も重要なことは信仰と霊による祈りです。幕屋は外庭、聖所、至聖所の三部分からなり、それぞれ人の体、魂、霊を予表します。出エジプト記三十章では、金の香壇は聖所にありますが、ヘブル九章では至聖所に属するとあり、一見すると矛盾です。しかし香が私たちの祈りを意味することを知るときに、旧約では年に一度大祭司のみが血と香をもって至聖所に入れたのに対して、すでに隔ての幕が断ち切られている新約では、香(祈り)はつねに至聖所、すなわち神の臨在の場である私たちの霊から立ち上ることが分かります。次の各点を信仰と霊によって祈ってください。

まず、@神に従い、そして悪魔に立ち向かいましょう(ヤコブ四・7)。神に従った後、敵に立ち向かうという順番が大切です。戦いの武器は小羊の血とあかしのことばです(黙示録十二・10、11)。A今まで信じてきた偽りの自己像や世界観などを悔い改め、捨てましょう(コロサイ二章)。B感情に囚われることなく、意志をもって人を赦しましょう(マタイ六・14、15)。これは名前と理由を言葉に出して宣言することを勧めます。Cプライドや反抗心を捨て(ヤコブ四・6;1ペテロ五:6〜7)、「御霊による神の生き方を選ばせてください」と宣言します。D最後にサタンの要塞と呪いを断ち切ります(2コリント十・4〜5)。イエスが呪いの杯を飲んで下さり、私たちには祝福の杯を下さったのです(ガラテヤ三・13)。

以上のことを自分の言葉でなく、ここに引用した御言葉(ロゴス)に信仰の霊を織り込んで、ダイレクトに祈り出してください(レーマ)。御言葉による祈りこそが、神に対しても敵に対しても最も有効な祈りです。<ロゴス+信仰=レーマ=霊=いのち>です。

最後に真理の適用についてまとめましょう。第一点、何を聞いて、信じて従うか。感情や経験などはその結果です。第二点、御霊による再建の働きに信仰と従順をもって応じる。第三点、それを妨げる要因を御言葉に従って処理する。このとき体と魂の自己治癒機制と、御言葉による御霊の働きの相乗効果によって、魂は癒され、体も御霊のいのちによって充満され、全人格的に真理のうちに建て上げられていきます。

次回からは、「戦い:立つこと」についてお話していきます。


mbgy_a05.gif