|
クリスチャン生活を続けているうちに、救われた当初の喜びと解放感を失って、迷いに落ち込んで疲れ切った経験のある人が多くいます。なぜでしょうか。実は神の救いの業を、私たちが主観的に経験することを邪魔する存在があるのです。その相手の策略を見抜き、それに対する有効なパンチを出していく必要があります(第一コリント九・26)。
ただし、自分の力で戦うのではありません。それは危険です。まずキリストが得て下さった勝利にとどまり、その霊的領域から引き出されないことです。今日の敵の策略は偽りによって私たちを欺くことです。よって御言葉の真理に堅く立つことがポイントです(第ニコリント二・11、第二テモテニ・25、26)。
思いに働きかける敵
「それから、私は彼らに言った。『あなたがたは、私たちの当面している困難を見ている。エルサレムは廃墟となり、その門は火で焼き払われたままである。さあ、エルサレムの城壁を建て直し、もうこれ以上そしりを受けないようにしよう。』そして、私に恵みを下さった私の神の御手のことと、また、王が私に話したことばを、彼らに告げた。そこで彼らは、『さあ、再建に取りかかろう。』と言って、この良い仕事に着手した。」(ネヘミヤ二・17、18)
皆さんもこの状況と同じように、困難に直面し、傷ついているかもしれません。しかしここに書かれているように、城壁の再建、すなわち魂を再建することは「良い仕事に着手」することなのです。
ところが「ホロン人サヌバラテと、アモン人で役人のトビヤ、および、アラブ人ゲシェムは、これを聞いて、私たちをあざけり、私たちをさげすんで言った。『おまえたちのしているこのことは何だ。おまえたちは王に反逆しようとしているのか。』」(同・19)。どうですか、クリスチャンとして歩み始めると、周りからいろいろなチャネルを通してこういう声が聞こえてきませんか。
私たちは霊が再生され、霊的世界の存在との関わりができました。パウロはそれらを「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊」(エペソ六・12)と呼んでいます。
これらの敵は私たちの思い(mind)に働きかけることができます。時に、受け入れ難く困惑を感じるような想いや映像が頭に浮かぶことはないでしょうか。もし思いに浮かぶ表象すべてが自分に由来すると思っているならば、敵にだまされています。敵は、スクリーンに映像を映し出すOHPのように、私たちの思いというスクリーンに自分の想いを投影できるのです(エペソ六・16)。
真のクリスチャンの場合は霊の再生と御霊の内住を得ていますから、意志が奪われるほどにサタン、悪霊に取り憑かれることはないものと言えますが、彼らが思いに関わってくることは避けられません。悪魔、悪霊をただの神話だと思っているならば、それによって敵に足場を与えることになります。そして一旦欺かれるとかなり深刻な事態にも陥ります。敵は自分の存在を隠して私たちを唆し、私たちが罪を犯すならば、一転して情け容赦のない検事のように、私たちを神の前で告発するのです。彼はほえたける獅子のように虎視眈々と私たちを狙っていることを覚えておいてください(1ペテロ五・8)。
人間の位置と戦いの対象
では人間はどのような位置に置かれているのでしょうか。まず体は物理的次元に存在し、魂は心理的次元、霊は霊的次元と関わっています。クリスチャンは神との交わりが回復された一方で、サタンと悪霊からのアクセスも避けられません。神にジェラシーを燃やす敵は、神が愛しておられる私たち人間を憎んでいます。神の守りがなければ、命さえ脅かされることもあり得るのです。サタンの方法は非常に狡猾で卑劣です。神と人とサタンの三者関係の霊的ダイナミクスを理解することが本質的です。
しかしヨブ記を見て分かるように、サタンが働けるのは神の主権の範囲内だけです。特に私たちが高ぶるとき、敵の罠にまんまと引っ掛かります(第一コリント五・2〜5)。ですからいつも神の憐れみを受けつつ、その保護の内に留まる必要があります。
私たちが戦う対象は、@サタン(エペソ六・11):この世を用いて、私たちの五感・思いを通して私たちの肉を刺激し罪へと誘導する、A肉(エペソニ・3):大脳・中枢神経系に条件付けされた古い自己の生き方のパタンと神から独立しようとする魂の性向、Bこの世(第一ヨハネ五・19):サタンの統治下にある神を拒否するシステム――の三つです。これらが私たちの魂が再建にあずかるときに、阻害要因として入り込んでくるわけです。今回は特に、再建の働きを阻害しようとする張本人、サタンが何者であるかを詳しく見ていきます。
サタンという存在
ネヘミヤ記にはエルサレムの城壁の再建を妨げる者が登場し、脅しをかけてきます(ネヘミヤ三・19)。これは私たちの霊的世界においても同様です。
では霊的世界において脅しをかけてくるサタンとは何者でしょう。当初サタンは天使長ルシファー、明けの明星でした(エゼキエル二八・12〜17)。エゼキエル書の箇所はツロの王を指して言っていますが、サタンを暴いている箇所でもあります。サタンは元々、神の被造物として素晴らしい存在でした。彼は誘惑によらず自らの意志で罪を犯しました。イザヤ書一四章十二〜一五節に暴かれています:「私は天にのぼろう、・・・私の王座を上げ、・・・いと高き方のようになろう」、これがサタンの本質です。そして地に落とされたのです(ルカ十・18)。
このサタンという単語はギリシャ語で「敵」という意味です。また別名の悪魔は「中傷する者」という意味です。つまりサタンのアイデンティティは敵であり、神の前で私たちを中傷する者であり(黙示録十二・10)、その本性は偽り者です(ヨハネ八・44)。彼は光の天使にすら変装できます(第二コリント十一・14)。
私たちはその中傷と偽りに耳を傾けてはいけません。一旦許すならば思いは混乱し、感情は乱れ、意思決定も狂って果てしない泥沼に落ち込みます。ゼカリヤ書三章には神の前で大祭司ヨシュアを訴えようとしているサタンの姿があります。ところが神は何とおっしゃったでしょうか。「サタンよ。主がおまえをとがめている」(ゼカリヤ三・2)。さらに三章四節では御使い(=キリスト:黙示録十・1参照)がヨシュアの汚れた服を脱がせ、新しい礼服を着させるように命じられました。この光景をイメージし、信仰によってこの御言葉の中に立ってください。
現在サタンはすでに十字架によって裁かれ敗北しています(第一ヨハネ三・8、コロサイ二・15、ヘブル二・14、15)。サタンの罪定めの声が聞こえてきたときには、自分で努力するのではなく、この事実を突きつけ、イエス・キリストの十字架の血を取ってください。「サタンよ、お前はすでに裁かれている」と宣言しましょう。直ちに罪責感から解かれます。
権威を着る
ここに注意すべきことがあります。元々素晴らしい存在であったサタンには力がありますが、キリストにある私達は恐れる必要はありません(第一ヨハネ四・4)。だからと言ってあなどることはできません。戦う天使であるミカエルでさえ、あえてサタンをさばくことはしませんでした(ユダ九節)。ましてや私たちはどうでしょう。私たちはただ「キリストにあって(in
Christ)」勝利にあずかるのです。これがキーワードです。例えば街で交通整理をしている警官は、制服を着ているからこそ車を停めることができます。普段着の私が出て行ったならば無視されます。制服を着るということは権威を帯びることです。車を物理的に止める力はなくても、停止させる権威を帯びるのです。同様に私たちも大祭司ヨシュアと同様にキリストを着るときに、サタンに対抗する力はなくても、神から委ねられた権威を行使できるのです。