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今回は私たちの戦いの対象であるサタンが、どのように働きかけてくるのかを見たいと思います。
誘惑の本質
サタンのタクティクス(戦略)は誘惑です。誘惑とは単に悪を行わせるように仕向けることではありません。サタンは善と見えることを行うようにも誘惑します。誘惑の本質とは「神から独立・分離すること」です。アダムとエバが堕落した状況を思い出してください。彼らは悪を知ったのではありません。善と悪を知ったのです。つまり善自体も、神から離れて行うならば、立派な罪です。信仰によらないことはすべて罪です(ローマ十四・23)。悪を知ることであれ、善を知ることであれ、その結果、彼らは神から分離されたのです。
私たちも「クリスチャンだから、良いことをしよう。罪を犯さないようにしよう」という生き方を志向しますと、かえってつまずきます(ローマ七章)。大事なことは神から離れないこと、神から独立しないことです。
それに対して、私たちを神から引き離すため、サタンは、肉の欲、目の欲、生活の誇り―の三つのチャネルを通して誘惑します(第一ヨハネ二・16)。
肉の欲とは、肉体的欲求のことであり、食欲、性欲、快や安全の欲求といった生物的次元における欲求です。これを満たす方法は神がすでに用意して下さっています。にもかかわらず神から独立して、自分の手段で満たそうとすることが罪なのです。
目の欲とは、見栄えが良いものを追い求める精神的欲求のことを指します。人は輝いて見えるものが好きです。したがって人は、キラキラして見える宝石をはじめタレントやスポーツマン、時には伝道者や牧師さえもアイドルとして崇拝するわけです。
生活の誇りとは、自己尊厳の追求であり、いわゆる社会的欲求を言います。学歴、地位、名誉、財産、功績、評判など、男性は特にこの領域において弱点を持っています。
これら三つの欲求自体は罪ではありません。神が創られたもの自体に罪はないのです。それは感謝して受けるとき、すべてのものは祝福となります(1テモテ四・4)。問題は、私たちがそれをどのように満たしたり、用いたりするかということなのです。
サタンの狡猾な誘惑方法
ではサタンの誘惑法を見てみましょう。まずエバへのサタンの関わり方です:
蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」そこで蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。(創世記一・1-6)
ここでサタンはエバに疑問を提示し、禁断の木の実に注意を向けさせることにより、先述の三つの面から誘導しています。すなわち、肉の欲(=「まことに食べるのに良く」)を刺激し、次に目の欲(=「目に慕わしく」)に訴え、最後に生活の誇り(=「賢くするというその木は好ましかった」)をかきたてました。そしてエバは許されている他の木々を忘れ、ただ一本の禁断の木に注意を向けたために、見事にサタンの術中に落ちたのです。
ではイエスの場合はどうだったでしょうか。荒野での四〇日断食を終えて、空腹で疲労したイエスに対し、サタンはやはり三面から誘惑しています。すなわち、「神の子なら、石をパンにせよ」(肉の欲)、「神の子なら、下に身を投げよ。天使が守る」(目の欲)、「自分を拝せば世界の栄華を与える」(生活の誇り)(マタイ四・1-11)と巧みに誘惑しました。サタンは「神の子なら」と真理を指摘し、かつ御言葉をさえ使っています。私たちは100%の偽りは見抜けますが、90%の真理に10%の偽りを混ぜられますと、しばしば欺かれます。これが特にカルトで見られるサタンのやり方です。
ここでイエスがどのように対処されたかがポイントです。エバはサタンとの会話に引き込まれましたが、イエスはサタンと一切会話せず、三回とも「聖書に・・・と書いてある」と御言葉で答えられました。イエスは神の子であったにも関わらず、自分の言葉ではなく、聖書の言葉で応戦されました。
注意すべき点は、イエスが御言葉そのものをダイレクトにぶつけたことです。サタンは人の神学や理論とか思想などは恐れません。御言葉そのものを恐れるのです。だからこそ聖書も「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」(コロサイ三・16)るように勧めています。信仰と共に御言葉をダイレクトに語り出すこと、これがサタンとの霊的戦いのコツです。
こうして最初の人であるアダムは失敗しましたが、最後のアダムであるイエス(第一コリント一五・45参照)は死と復活により勝利され、第二の人、新創造の初穂として栄光化されました。私たちも自分で戦うまでもなく、信仰によってこのイエスと一つにされる時、その勝利を継承するのです(1コリント十五・57)。私たちの戦いとは、すでに成就したその事実を信仰によって宣言し、適用することです。いわばクリスチャンとは「他人(イエス)のふんどしで相撲を取る」者たちなのです。
エバの失敗の分析
ではなぜエバは失敗したのでしょう。まずサタンがささやいた言葉を思い出してください。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」(創世記三・1)
実際に神が命じたことは、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(同二・17)でした。食べてならない木はただ一本だけだったのです。
そこでエバは慌ててサタンの言葉を訂正しようとしました。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」(同三・3)。彼女はある意味で神を擁護(=善)しようとしたのです。ちなみにペテロもイエスを擁護して叱責されています(マタイ十六・23)。
神の言葉を思い出してください。神は「触れてもいけない」とはおっしゃらず、また「死ぬといけないから」ではなく「必ず死ぬ」と言われたのです。つまりエバは神の言葉に脚色を加えました。この時点でエバの信仰が曖昧になっていることをサタンは見抜きます。
こうして自分のペースにまんまと巻き込んで、次に「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(同三・4)と、神が何か良いものを出し惜しみしているかのような暗示を与え、神の言葉を真っ向から否定するわけです。ついにエバはその木を見てしまいます。ここにすでにサタンの言葉に対するエバの意志の同意があります。
エバが負けた根本原因はサタンとの会話に巻き込まれ、御言葉に立たなかったことです。私たちの思い(mind)は容易に欺かれます。カルトのマインドコントロールがその好例です。対して神の造り替えも思いからなされます(ローマ十二・2、原語)。サタンは私たちよりはるかに賢く、狡猾で、策略巧みなのです。したがってサタンに欺かれないためには、まず彼との会話に引き込まれないことです。
それではサタンの戦略とその結果についてまとめましょう。すなわち、
疑問提示(会話に引き込む)→エバが訂正(真理の脚色)→神の出し惜しみを暗示(御心への疑問)→御言葉の直接否定→肉を刺激(三つのチャネルより)→意志の同意と行為(罪の成立)→裸を知る(自or罪意識)→恥部の隠蔽(取り繕い)→神からの逃避
となります。繰り返しますが、サタンの意図と方法は私たちの注意を神から離し、自己に向けさせることです。罪とは<神意識→自己意識>であり、信仰とは<自己意識→神意識>です。戦いの最前線は私たちの思い(mind)にあり、そこを突破されないためには、私たちの意志(will)を用いて自分から目を離し、イエス(御言葉)を注視することです。