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今回は霊的戦闘における神のタクティクス(戦略)についてお話しします。
サタンのアクセス・チャネル
先に述べたように、サタンが特に使用するチャネルは、私たちの思い(mind)です。「初めから人殺し」で「偽り者であり、また偽りの父」(ヨハネ八・44)と呼ばれるサタンは、私たちの思いの内に疑問、理屈、悪意、憎悪や、様々な映像や空想を投影してきます。これらによって肉を刺激し罪へと誘導します。ですから第一に守るべき地点は思いです。
またサタンは人や環境を通しても直接的に働いてきますが、それらは神の主権によって制限されていることを覚えてください(ヨブ一・12、二・6、1コリント十・13)。それは「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ八・28)ためなのです。例えばヨセフの生涯を見てください。兄たちにエジプトに奴隷として売り飛ばされ、無実の罪で牢獄に入れられました。やがてヨセフは鍛えられ、エジプトのナンバー2にまで登り詰め、飢饉の際にヤコブたちを助けることができました。
個々の問題をすぐにその場で解決しようと焦るべきではありません。世の中は即効を求めます。しかし御霊の薫陶を受けるために、むしろそこに踏み止まることが必要な場合もあるのです。神は私たちの人生にしばしば布石をいくつも打たれるのです。私たちはサタンとこの世に対する勝利をすでに得ています。それは問題や症状を除去して気持ち良くなることではなく、その困難の中にあっても平安と安息を得る勝利です。
キリストとのいのちの結合
大事なのは自分がキリストにつぎ合わされ、その死と復活に与っていることを知ることです(ローマ六・5)。鍵は"In
Christ"にあります。現在の日本の多くの教会においては、イエス・キリストの身代わりの死で終わっています。復活にあって「いのちを与える霊」(1コリント十五・45)として、キリストが内にあって生きて下さる真理に対して、霊の目が開かれていない方々が多いのです。
そのため多くの人が自己努力でもがき、失敗を繰り返し、疲労困憊し、果てしない葛藤に陥っております。そうではなく、私たちの内にいますキリストが生きるので、私たちも生きるのです(ヨハネ十四・19)。むしろ信じる私たちは自分のわざをやめ、安息するのです(ヘブル四・3)。イエスはまことの葡萄の木で、私たちはその枝です(ヨハネ十五・5)。御霊によってイエスのいのちが、私たちの霊を通して甘い樹液として絶えず流れ込むのです。
現在の私たちの責任は御霊から独立する性向を持つ魂を否むことです(ルカ九・24など、原語)。すると御霊によってキリストが生きて下さるのです。そのためには信仰による応答が必要です。信仰とは目に見えない霊的事実を実体化することです(Darby訳、ヘブル十一・1)。過去は終わっています。現在の信仰があれば経験が伴います。
戦闘の方法
まず戦闘の基盤はイエスの血と私たちの証しの言葉にあることを確認して下さい(黙示録十二・11)。この血は私たちのために語ります(ヘブル十二・24)。自己弁護は要りません。血が弁護して下さるのです。私たちは真理を信仰をもって語るのです。
ではエペソ書から具体的戦術を見ましょう。霊的戦いは私たちの方法ではなく、神の方法によります。私たちの武具は神の武具です(エペソ六章)。
まず腰には「真理の帯」を締めます。スポーツ選手を見れば良く分かるように、腰はきわめて大切です。私たちは変わらない聖書の真理に重心を置く必要があります。次に、「義の胸当て」を胸に着けます。この義はもちろん私たち自身の義ではなく、キリストの義です(1コリント一・30)。それによって私たちの胸(良心)を刺す痛みから守られます。
また、足には「平和の福音の靴」です。スポーツをするときには専用の靴を履くように、霊的戦いでは「平安」というスパイクを履きます。イエス・キリストは「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がせてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ一四・27)とおっしゃいました。たとえトラウマがあっても、環境がパニック状態にあっても、この深い平安の上に立つことができるのです。
そして手には「信仰の大盾」を取り、敵の放つ火の矢を消します。頭には「救いのかぶと」をかぶります。絶望や罪責による思いへの敵の攻撃に対して、「私は完全に救われている」というヘルメットをかぶって守りましょう。最後に「御言葉の剣」です。唯一の攻撃用武器はこの御言葉の剣です。イエスが荒野でサタンと戦った時と同じように、レーマとして御言葉をダイレクトにぶつけるのです。信仰をもって語る御言葉には権威が伴います。クリスチャンは黙っていてはいけません。私が接してきた混乱している人々の大きな特徴は「受動性」です。敵は「あなた任せ」の人にジメジメと攻撃を加えます。虐めっ子に対しては毅然として声を出すべきです。これはパワー・コンフロンテーションです。
御言葉による思いの再構成
私たちは不必要なサタンの圧迫を受ける必要はありませんが、ある状況において神が主権をもって葛藤や困難を許されることがあります。その時には「サタンよ、下がれ!」と言っても効がありません。この時必要なのはトゥルース・コンフロンテーションです。力ではなく真理による対峙です。神は思いを通して私たちの内に真理を構成することを意図しておられるのです。
回復の御業は魂の機能である思いから始まります(ローマ十二・2、原語)。思いの造り替えとは、今まで受け入れてきた世の哲学や自分流の価値観を、神の真理と価値観に置き換えることです。要塞も御言葉によって粉砕されます。ぜひコツコツと御言葉を皆さんの内に蓄積し、受肉させてください。
こうして意識レベルでも無意識レベルでも、御言葉が精神の内に構成されますと、<霊(直覚)→真理の把握(思い)→意思決定(意志)→行動(体)→平安と安息・いのち(感情)>という霊的行動パタンが条件付けされていきます。キリストの内的経験を私たちも追体験するのです。今いろいろな苦しみがあったとしても、御言葉が受肉していくうちに、やがて神の栄光へと変えられていきます(ローマ八・18)。痛みは私たちに不可欠です。「私は傷ついて哀れです・・・」と嘆く自己憐憫の霊はさらに心を蝕みます。その"自分"を放棄して下さい。
心の問題は癌のオペのように、麻酔されている間に誰かが解決してくれるものでありません。個人レベルにおいては、自分の意志を用いて真理を選択し、内なる平安と安息、すなわち恵みの領域を拡大する必要があるのです。仮に思いや感情が圧迫され、混乱していても、クリスチャンの意志を束縛することは誰もできません。不安や恐れを感じる闇の部分に真理の光を当てるのです。闇は光に勝ちません(ヨハネ一・5)。
そして教会レベルでは神の連合軍として、福音によってサタンに占拠されたこの世も解放し、御国を拡大して行くのです。御国の拡大とは平安と安息の拡大です。
では「戦い−立つこと:自由の死守」をまとめます。@私たちはすでにキリストの勝利を得ているが、それを主観的に経験する際に、信仰の阻害となる要因は、サタン、肉、この世である。A私たちの責任は意志を用いて、信仰によって真理を適用し、戦いの姿勢を取ること。B脳裏に浮かぶ表象は、自分、肉、サタン、神をルーツとする。C敵の第一のアクセス・チャネルは私たちの思いであるから、思いを御言葉によってキリストの思いに合致させる。D御霊の思いは必ずいのちと平安をもたらす。
次回からはこれまでの補足説明、読者からのご質問などに答えます。