フルコンタクト・ゴスペルB

霊が活きる道―福音の直接体験―


信仰の本質(1)






御霊の照明(続き)

御霊の証明の下では自分の様々な真実を否応なく見ますが、仮に欠点や醜い部分などが見えても、決して罪定めの感覚や自己卑下とか劣等感を感じることはありません。他人を見るように、きわめて客観的に冷静に自分を知ることができるのです。

御霊はすべてを探り(第一コリント二・10)、人の霊も人の奥を知ります(同11節)。よって霊の人(原語)はすべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません(同15節)。なぜなら、私たちはキリストの思い(原語)を持っているからです(同16節)。

そして御霊によって対処するように導かれた部分を悔い改め、イエスの血によって清めていただけるのです。その結果は必ず解放感を伴って、御霊にあるいのちと平安をもたらします(ローマ八・6)。これに対してこの世、あるいはサタンの罪定めは死をもたらします(第二コリント七・10)。

大切な点は、御霊が私たちの罪を指摘されるのは、粗探しをするためでなく、その束縛から解き、いのちと平安へと導くためです。この御霊による真実の指摘を英語では"conviction"と言います。御霊が来られる時、罪と義と裁きについて明らかにされます(ヨハネ十六・8)。それに対して罪責感によって死をもたらすために、サタンが罪を指摘することを"condemnation"と言います。それは私たちを罪責感に幽閉し、キリストの勝ち取って下さった自由を奪い取るためです。この区別が日本語では曖昧です。そこでこの連載では、前者を"御霊の照明"、後者を"罪定め"として区別します。


信仰は神の賜物

神の霊の息吹きである御言葉と私たちの霊とのフルコンタクトの結果、それは光を放ち、私たちを解放し、キリストにある自由、そしていのちと平安を生み出します。それを実現して下さるのが、内にいます御霊です。私たちの霊は御言葉を通して御霊と感応するのです。御霊はイエスがなされた客観的な霊的事実(=真理)を、私たちの内において実際的な経験に卸して下さるのです。

私たちが遭遇するあらゆる場面において、私たちに必要な真理はすでに聖書の中に啓示されています。キリストの十字架は、私たちのあらゆる罪を赦し、あらゆる病を癒し、あらゆる必要を満たして下さる完全なる根拠です(イザヤ五十三章、第二コリント八・9、ピリピ四・19)。すでにそれらは成就されている霊的事実です。そのことを私たちの経験とするためには、私たちの側に信仰が必要です。すべては十字架の真理に基づいて信仰によって実体化されます(へブル十一・1)。

ここで注意すべき点は、信仰とは私たちが自分の意志の力を用いて、「私は信じます、信じます、信じます・・・」と念じることではありません。信仰は神からの賜物です。すなわち「イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです」(使徒行伝三・16)、「神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい」(ローマ十二・3)、さらに「いま私が、肉あって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子の信仰(永井訳)によっているのです」(ガラテヤニ・20)とあります。信仰はイエスによって量り与えられており、肉(体)にあって生きている私は、内に生きる"御子の信仰"によって生きるのです。もっと直接的に聖書は「神の信仰をもて」(マルコ十一・22、永井訳)と言います。"神の信仰"です!私たちにはすでに"信仰の霊"が与えられているのです(第二コリント四・15)。

私たちの責任は意志("意志の力"ではありません)を用いて、主に思いを向けることであり、このとき覆いが取り除かれるのです(第二コリント三・16)。すると御霊が信仰を息吹いて下さるのです。「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストのみことばによるのです 」(ローマ十・17)とあり、「賜物はいろいろありますが・・・またある人には同じ御霊による信仰が与えられ」(第二コリント十二・9)、また「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 」(エペソニ・8)とあるとおりです。

そこで私たちは次のイエスのことばに単純に応答し、率直にイエスの名によって求めれば良いのです:

「あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」(ヨハネ十一・22)。

「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。」(同十四・13)。

「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(同十五・7)。

「また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(同十五・16)。

「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。」 (同十六・23)。

―いかがですか、あなたはこれらのことばにどう応答しますか?


信仰の対象と時制

さて、ここで問題となるのは、私たちはしばしば信仰を語るときに、自分の"信仰"に信仰を置こうとするミスを犯します。つまり自分が固く信じることができれば、神はその通りにして下さる、と。確かにイエスは、信じる者にはできないことはない、と言われます(マタイ十七・20)。そこで私たちは"自分の信仰"を測るために、自分の内を探り出すのです。これは敵の狡猾な罠です。私たちの内には何もないのです。

私たちの信仰の対象は、"自分の信仰"ではなく、神ご自身なのです。ニューエイジではよく、強く信じれば観念が物質化する、と教えます。これはイエスの言う信仰と正反対です。私たちの信仰はすでに救いが成就しているから、それを信じるのです。信じる対象がすでにあるのです。この霊的事実(真理)を見ずに、自分を見て、"自分の信仰"を追及し出すと果てしない葛藤に陥ります。信仰はからし種一粒(直径0.1mm程です)あれば十分なのです(マタイ十七・20)。

またもう一つ注意を要する点は、希望と信仰の違いです。これを混同しているために多くの人が葛藤に陥っています。例えば何かの必要があるとき、私たちはそれを満たして下さい、と祈ります。この時、「神は必ず与えて下さるだろう。」という想いは信仰ではありません。これは希望です。信仰は、「神はすでに祈りを聞いて下さった。必要は満たされた。」と宣言します。すなわち、希望は未来形であり、信仰は完了形なのです。目の前にまだ何もなくても、「すでに得た!」と分かるのです。同時に感謝と賛美が湧いてきます。すると神の時と方法によって、その通りになります(マルコ十一・24)。これが信仰です。皆さん、私は率直に語らなくてはなりません。多くの人が神に裏切られたと感じるのは、信仰ではなく、希望をいだいていたからです。

信仰はしばしば私たちが自分から目を離す時に、すっと与えられます。それまでは自分の必要の満たし、自分の病の癒し・・・などなど、自分の、自分は、自分が・・・でした。祈りもつねに中心に自分がいました。そのような期間はなかなか祈りに答えていただけません。しかしその中で御霊の取り扱いを受けるとき、ふと意識が自分から離れる瞬間が訪れます。その瞬間、「あっ、祈りが聞かれた、それを得た!」と分かるのです。私はこれを"信仰の瞬間"と呼んでいます。どうしてそれが分かるのですか、とよく聞かれますが、分かるから分かるのです、としか言えません。英語では"I know that I know." この内的経験はしばしば"Inner Witness of the Spirit(御霊の内的確証)"と呼ばれます。すると、得たと信じたことが、神の時と方法で、そのとおりになるのです(マルコ十一・24)。神が祈りに答えることを渋っておられるのではなく、私たちがその祝福を得るにふさわしい条件を整えられる時間が必要なのです。

この霊的経験のメカニズムの詳細は、後に詳しく触れます。


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