信仰はしばしば私たちが自分から目を離す時に、すっと与えられます。それまでは自分の必要の満たし、自分の病の癒し・・・などなど、自分の、自分は、自分が・・・でした。祈りもつねに中心に自分がいました。そのような期間はなかなか祈りに答えていただけません。しかしその中で御霊の取り扱いを受けるとき、ふと意識が自分から離れる瞬間が訪れます。その瞬間、「あっ、祈りが聞かれた、それを得た!」と分かるのです。私はこれを"信仰の瞬間"と呼んでいます。どうしてそれが分かるのですか、とよく聞かれますが、分かるから分かるのです、としか言えません。英語では"I
know that I know."
この内的経験はしばしば"Inner Witness of the Spirit(御霊の内的確証)"と呼ばれます。すると、得たと信じたことが、神の時と方法で、そのとおりになるのです(マルコ十一・24)。神が祈りに答えることを渋っておられるのではなく、私たちがその祝福を得るにふさわしい条件を整えられる時間が必要なのです。