フルコンタクト・ゴスペルD

霊が活きる道―福音の直接体験―


霊の機能-良心





前回までは総論的に、人の霊、その再生、御言葉による御霊との相互作用、信仰の本質を説いてきました。今回からは各論的に、まず人の霊の機能について詳しく論じます。私たちが神との交わりを得るのも、霊的真理を見て、信仰を得るのも、すべては私たちの霊に鍵があります。


霊の機能

まずこの論点については、すでに古典となった知る人ぞ知る、Watchman Nee, The Spiritual Man Vol. 1-3, Christian Fellowship Publishers (New York) 1968を推薦します。同書は私が提唱する「霊-精神身体医学」のルーツと言える傑作であり、人の霊・魂・体について聖書から詳細に解き明かしております。現代にあって用いられている神の器の多くがNeeによって霊的啓発を得ていることは否定し得ない事実です。

人の魂 (soul) には思い (mind)、感情 (emotion)、意志 (will)がありました。いわゆる知・情・意であり、最近の大脳科学の知見により、ある程度各機能の生理学的根拠も分かってきています。しかし私たちの魂(精神)は、単に大脳のニューロンのネットワークとそのシナプスの神経伝達物質による物理化学的現象ではなく、そのハードウェアの上に走るソフトウェアであって、大脳の生理学的現象と魂の働きが密接にシンクロしているために、セキュラーな科学者はその違いを見出し得ないのです。魂が走らなければ大脳は単なるタンパク質の塊であり、大脳を利用しなければ魂の機能は外に表現されません。

ダイレクト・カウンセリングでは霊について深く入りませんでしたが、実は霊にも諸機能があります。すなわち、良心(conscience)、直覚(intuition)、交わり(fellowship)です。ただし、注意して欲しいのは、ほとんどの邦訳聖書では、霊、魂、心などの単語を恣意的に用いておりますので、必ず原語あるいは逐語訳(インターリニア)に当たって確認して下さい。


1.良心

(1)良心の機能

通常良心は精神現象の一部と見られていますが、聖書は霊の機能の一つであることを啓示しています。霊的なものであるから、霊的なイエスの血によってきよめられるのです(ヘブル九・14)。私たちの魂と体の健やかさにとって、良心はまず第一に重要な要素です。いかに多くのクリスチャンが、この良心を適切に取り扱うことに失敗し、いわゆる良心の呵責、罪責感、後悔などで苦しんでいることでしょう。サイコセラピーでは決してこれらの良心の問題を解決できません。

具体的に御言葉を見てみましょう:

「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊(原語)の砕かれた者を救われる」(詩篇三十四・18)。

「神よ、私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」(詩篇五十一・10)。

―私たちの心はしばしばクラッシュします。内側の何かが壊れてしまうのです。このような場合はたいてい良心が触れられています。それは神に触れられる場合とサタンに攻撃される場合があります。神に触れられるときは必ず平安といのちを生み、敵のアタックであれば、死をもたらします。

「パウロは町が偶像でいっぱいなのを見て、彼の内の霊(原語)が痛みを生じさせて」(使徒行伝十七・16)。

―偶像に対してパウロの良心が憤った場面です。

「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊にあってあかししています(原語)」(ローマ九・1)。

―私たちの良心は聖霊のうちで証しするのです。聖霊は私たちの霊に臨在されます。

「私のほうでは、からだはそこにいなくても霊にあっては(原語)そこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行いをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。」(第一コリント五・3)。

―パウロは自分の良心に従って、主の御名によって、霊において裁きを行なったのです。

「兄弟テトスに会えなかったので、霊(原語)に安らぎがなく」(第二コリント二・13)。

「神が私たちに与えてくださったものは、臆病の霊ではなく、力と愛と健全な思いの霊です(原語)。」(第二テモテ一・7)。

―私たちは良心がゆるぐとき、確信を失います。まず何があっても良心を守ることが信仰生活にとっての要です。「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました」(第一テモテ一・19)とならないためです。


(2)良心を守る

私たちの良心を守るためにはどうすればよいのでしょう。しばしば私たちは、隠された罪がないか、悔い改めるべきことはないかと、内側を探る方向付けを受けております。そして思い出せる限りの罪を告白し、悔い改めるのですが、それでもしばばしば、どうしても平安を得ることができないのです。良心はますます過敏になり、神と人の前での確信を失ってしまいます。

実はこのような態度は自分の何かを当てにし、自分の何かで良心をきよめようとすることの現れです。しばしば霊的な巨人の証を聞いて、内側の"全き潔め"を得ようとして、そのような絶望的な探索に落ち込んでしまう人があまりにも多いのです。これは敵の罠です。皆さん、私たちが救われたのは何によったのでしょうか?私の何かでしたか?違います。パウロはガラテヤ書でこのことを繰り返し訴えています。それはイエスの血のゆえです。救いがイエスの血によるのであれば、歩みもイエスの血によるのです。

私はここで断言します:イエスの血による以外に良心の咎めを去る方法はないのです!それ以外のものに頼ることは、すでに述べたように「ある(I AM)」方を否定すること、すなわち罪なのです。皆さん、自分の内を探り、自分の何かで神の御前で良心の平安を得ようとすることは、イエスの血を否定することです。しばしばある種のミニストリーはそのような"全き潔め"を追求しますが、多くの人がそれによって束縛に落ち込みます。私たちの内には何らの良いものがないのです(ローマ七章)。

御霊の照明についてはすでに述べました。私たちの責任は御霊の照明によって明らかになった部分を対処すればよいのです。それぞれのいのちの成長のレベルによって、御霊のお取り扱いも異なります。これを一律に何かの基準を設けることは恐るべき束縛を生みます。パウロは声を大にして言っています、「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わされないようにしなさい」(ガラテヤ五・1)。

私たちの良心をきよめるのは、私たちの行為でもなく、私たちの善でもなく、私たちのわざでもありません。それは私たちの良心に注がれたイエスの血なのです(ヘブル九・14、十・22)。旧約のように何度も犠牲の動物の血を流す必要はもはやありません。すでにイエスがただ一回の完全なる贖いを、その血を流すことによって成し遂げて下さっているのです(ヘブル九章)。すでに完成しているのです(ヨハネ十九・30)。イエスの血は自らそのことを語ります(ヘブル十二・24)。血が私たちのために弁護して下さるのです。

私たちは確かに失敗します。その時は責任を負います。人を傷つけたら謝罪が要ります。しかし御霊が私たちの良心を取り扱われるのは、すでに述べたようにいのちと平安を生み出すためです。御霊の取り扱いを受けるならば、私たちの心は必ず解放感を得、素晴らしい平安と安息に満たされます。いのちが新たにされるのです。

もしサタンの罪定めの声を聞いたならば、即座に宣言しましょう、「サタンよ、十字架に流れるイエスの血を見よ。私に対するお前の罪定めはお前の上に置かれている。イエスの御名によって下がれ!」と。サタンは私たち以上に血と御言葉の力を知っています。ですから私はよく「サタンよ、お前はぼくよりも聖書をよく知っている。お前の運命はお前が知っているとおりである」とサタンに"宣教"します。


mbgy_a05.gif