フルコンタクト・ゴスペルF

霊が活きる道―福音の直接体験―


霊の機能-交わり





3.交わり

(1)交わりの機能

交わりとは、文字通り霊なる神と交わる機能です。神は霊ですから(ヨハネ四・24)、私たちも霊によって神に触れるのです。光は目で、音は耳で感知するのと同様に、神は霊で感知し得るのです。知性の中には神は存在されません(第一コリント一・21)。

確かに神の目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は被造物によって知られますが(ローマ一・19)、そのような認知の仕方はまだ間接的です。クリスチャンにとっては、もっと直接的かつ人格的で、親密な甘い交わり(フルコンタクト)が可能なのです。

神は愛です(第一ヨハネ四・16)。聖書にそうあっても、実感を伴って感じることができなければ、自分とは関係のない客観的な「真理」に過ぎません。神の愛は霊の交わりの機能を通して、魂の感情に触れて下さるのです。その愛は私たちの魂に甘く迫り、潤し、新鮮にし、力づけ、あらゆる困難においても、人知をはるかに越えた神の平安によって、私たちの心と思いとを守って下さるのです(ピリピ四・7)。その経験をもたらす機能が霊の交わりです。神がまず愛して下さったので、その愛に満たされるごとに、私たちも神を愛することができるのです(第一ヨハネ四・9,10)。

私たちの真のアイデンティティは、単に罪を赦された罪人ではなく、神の子とされ、御父と御子の交わりに御霊によって与ることができる存在なのです(第一ヨハネ一・3)。御子の人性を通して、私たちも神格の愛といのちの交わりに入る者とされているのです。この客観的事実を私たちの主観的な経験として下さるお方が御霊です。私たちに必要なのはその真理に対する信仰です。

御言葉を見てみましょう:

「わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」(ルカ一・46)。

―マリアの讃歌ですが、彼女は霊によって、神を"わが救い主"と認め、その幸いに与る者とされたことを喜んでいます。客観的な存在であった神を、"私の救い主"として知ることができるのは、私たちの霊によります。

「真の礼拝者たちが霊と真理(原語)によって父を礼拝する時が来ます」(ヨハネ四・23)。

―真の礼拝は、単なる儀式や祝詞によるのではなく、私たちの霊によって真理の中でなされるものです。ここの真理とは単なる物の道理ではなく、旧約に影として示された諸々の事柄の実現者、あるいはその本体としてのキリストがなされた新約の霊的リアリティの意味です(コロサイ二・17)。このリアリティの内、すなわちキリストにあって(In Christ)こそ、まことの礼拝ができるのです。

「私が御子の福音を宣べ伝えつつ、霊をもって仕えている神」(ローマ一・9)、「古い文字にはよらず、新しい霊によって仕えている」(ローマ七・6、欄外注)。

―私たちの真の奉仕とは、目に見える外側の諸々の活動ではなく、霊にあって、霊をもって仕えることにその本質があります。私たちの霊は、御霊がキリストの言葉と業、またそのパースンを証し、実体化される場ですから、霊においてこそ神に仕えることができるのです。霊によらない活動は肉に由来するものであり、しばしば消耗と不毛に終わります。

「そは汝等は・・・猶子(ルビ:ゆうし)の霊を受けたればなり、この霊にて我等は、アバ、即ち、父よ、と叫ぶなり。霊自ら我等の霊と同に、我等は神の児等なることを証す」(ローマ八・15,16、永井訳)。

J.N.Darbyは新約聖書の"霊"は、私たちの霊(spirit)なのか、御霊(Spirit)なのか訳し別けることが難しいと指摘しています。私たちは新しい心と新しい霊をいただきました(エゼキエル三十六・26)。その新しい霊は、私たちが神の子であることを証し、私たちの内でアバとの親密な親子関係を実体化します。

「主と交われば、一つ霊となるのです」(第一コリント六・17)。

―私たちの得た新しい霊は、神の子としての霊であるだけでなく、主と一つにされた霊です。私たちの霊は体の中に拘束されていますが、そこは至聖所であり(第一コリント六・19)、御父と御子が御臨在下さるのです(ヨハネ十四・23)。

「私の霊は祈る・・・霊において賛美し・・・霊において祝福する」(第一コリント十四・14-16)。

―私たちの霊は祈り、賛美し、祝福します。これはみな神との交わりに他なりません。

「御使いは霊にあって私を大きな高い山に連れて行き」(黙示録二十一・10、欄外注)。

―ヨハネが聖なる都エルサレムの啓示を受けたのは霊にあってでした。神が私たちにご自身の御旨を告げ、幻を見せて下さるのは、霊にあってです。


(2)交わりを深める

ダイレクト・カウンセリングでも述べましたが、すでにイエスがご自分の肉体を裂いて、真の至聖所に至る生きた道が開かれています。今やイエスの血によって、私たちは大胆にそこに入ることができ、恵みに御座に触れ、時期を得た助けを得ることができるのです(へブル四・18、十・19,20)。私たちは大胆に神の御臨在に入ることができるのです。

ポイントはここでも私たちの思い(mind)にあります。思いをつねに霊的事柄に置くことです(ローマ八・5,6)。また常にイエス・キリストを思っていることです(第二テモテ二・8)。霊も肉体の鍛錬と同様に一定の訓練が必要です(第一テモテ四・8)。

私たちが霊において神と交わるとき、神の愛、喜び、平安、喜び、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が伝達されます。これが私たちの魂の内に実(単数形)として結びます(ガラテヤ五・22)。実は私たちの内から生まれるものではありません。キリストは私たちの知恵となり、義と聖と贖いとになって下さったように(第一コリント一・30)、キリストがこれらの徳性となって下さるのです。神のあらゆる徳性、ご性質、属性はすべて私たちの霊によって受け取られ、霊から魂へと伝達され、魂の内でそれが再現されます(第二ぺテロ一・4)。

すなわち人の子イエスの内側で展開していた状況が、私たちの魂においても追体験されます。これが条件付けされますと、キリストの形が私たちの魂の内に形成されます(ガラテヤ四・19)。こうしてキリストは私たちの長子となり、私たちもキリストに同形化されるのです(ローマ八・29)。月が自分で輝くのではなく、太陽の光を反射して輝くのと同様に、私たちも主の栄光を反映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられて行きます。これはすべて御霊の働きによるのであって、私たちの霊において現在進行している神のみわざです(第二コリント三・18)。

主との交わりのコツが開かれるならば、私たちのクリスチャン生活は安定します。この時、自分の環境がどうであれ、魂に苦しみがあろうとも、霊には人知を越えた神の平安が満ち、深い安息にあって、神の御臨在を享受できます。私たちは特に感情の影響を受け易いですが、これは肥大した魂が霊を包み込み、魂と霊が癒着しているためです。そこで私たちの魂と霊は切り離される必要が生じます。これは諸刃の剣よりも鋭い、生きている神の言葉によります(へブル四・12、詳細は後述)。

こうして霊と魂が切り分けられるならば、魂があることに集中して意識の上では神を忘れている時でさえも、霊においては神との交わりを維持することができるのです。魂が苦悩に満ちている時も、霊は穏やかであり、神の御前で仕えることができます。反対に魂が歓喜で満たされている時も、霊は穏やかであり、神の御前で仕えています。

すなわち魂の状態(いわゆる精神状態)に影響されることなく、霊はつねに神の御臨在にあって、神を礼拝し、神を崇め、神に仕えることができるのです。霊は自分の魂の状態をあたかも他人のことのように眺めているだけになります。こうしてこの世における様々な事柄や自分の感情や人からの影響に揺り動かされることなく、神の御前で霊の深い部分にある平安と安息、そして神の御臨在に与ることができるようになります。

この点ブラザー・ローレンスは神との交わりの達人でした。彼の書簡集『敬虔な生涯−神の御前にある修練』(CLC出版)はこの点について大きな慰めと励まし、そして霊的な洞察に満ちています。体は地上にあっても、霊においてはまさにキリストと共に天の所に座しているのです(エペソ二・6)。私たちの実行のポイントは、思いを肉にではなく、霊に置くことです。「肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安です」(ローマ八・6、原語)。常に神の臨在に留まり続けるためには、訓練が必要です(第一テモテ四・8)。


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