フルコンタクト・ゴスペルJ
霊が活きる道―福音の直接体験―
十字架と御霊の機能
-死と復活の原則ー
完成された霊的リアリティ
すでに十字架によって私たちの完璧な救いは完成しています。
(1)その内容
私たちがエデンの園で喪失したもの―神との愛といのちの交わり、自己のアイデンティティ、神との関係における真の自尊心、神の保護による自己保全感、内なる平安と安息、これらをイエスはご自分の血によって贖って下さったのです。罪(
sins
)の赦しと罪(
Sin
)からの解放、霊・魂・体の癒し、そしてあらゆる必要の満たしです(イザヤ五十三章、第二ペテロ一・3)。ただし肉体の癒しについては、客観的事実としては完全であっても、体がまだ贖われていない現在(ローマ八・23)、時間の中に生きる私たちの経験の次元では制限があるように見える時もあります。
(2)その領域
この世の人々はこれらの要素を自分の魂と肉体による自己努力で獲得することを求めます。このような人の様と生き方を肉(
flesh
)と言いました。しかし私たち信じる者は、これらのすべての要素を"キリストにあって"得ることができるのです。私たちにとってキリストは、乳と蜜の流れる約束されたカナンの良き地です。キーワードは"
In Christ
"です。
(3)その条件
客観的事実(=真理)を自分の主観的経験に卸す条件は、ただ信じることです。私たちは神のみわざに対して、ただ霊によって応答し、受け取るのみです。信じる者は自分のわざを止めて安息します(ヘブル四・3)。
(4)その効果
私たちはキリストと共なる神の共同相続人として、神の富を受け継ぐ者とされました(ローマ八・17)。キリストに属するものはすべて私たちのものであり、十字架におけるキリストの死と復活に結合されて(ローマ六・5)、私たちはキリストと一つ霊になり(第一コリント六・17)、キリストと共に天に座し(エペソ二・6)、キリストと共に支配します(黙示録二・26、二十二・5)。神の御旨は私たちを通して、地上において執行されます(マタイ六・10)。
霊的リアリティを経験する
私たちは霊によって霊的リアリティとフルコンタクトするのです。それを私たちの主観的経験に卸して下さるのは御霊です。御霊はご自分を証しするのではなく、キリストの言葉とわざ、そしてパースンを証しするのです(ヨハネ十六・7-15)。よって、御霊の臨在はキリストの臨在と等価です。近年しばしばキリストのパースンにふさわしくない、いわゆる「御霊の現れ」が多々観察されます。
ポイントは、私たちがキリストの死と復活に結ばれること、霊においてキリストと一つにされることです。それはすでに成し遂げられている事実ですが、しばしば私たちが自己を主張するとき、そこからさ迷い出てしまうのです。自分の魂を否み、キリストの内にとどまることは私たちの責任です(ルカ九・23,24、ヨハネ十五章)。
自分で何かを得ようとすれば失います。自分にあって失えば、キリストにあって得るのです。ここに神の原則、すなわち<死と復活の原則>があります。神は自然界においても、霊的世界においても、法則によってみわざをなさいます。神は無秩序の神ではありません(第一コリント十四・33)。
死と復活の原則
イエスは言われました、「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。もし死ねば多くの実を結ぶ」と。植物の種はまず地中にまかれます。そしてその種自体はその硬い殻が破壊され、その中から柔らかな芽が出てきます。その芽は時にアスファルトを破って地上に出て来ることすらあります。そして太陽の光を浴びて、すくすくと育ち多くの実を結ぶに至るのです。
これが神の定めた植物の実の結び方です。種がもし自分のいのちを惜しんで、そのままでいようとしたら、縄文時代の稲がそのまま保存されていたのと同様に、永遠にそのままです。その中にあるアスファルトさえ破るいのちの力はその現れを制限されてしまいます。すなわち、種はまず種の形において死を経なければ、芽吹くという形での次のいのちは現れません。
私たちのうちには聖霊によって神のいのちが種として蒔かれています(マタイ十三章)。神のいのちの遺伝子が組み込まれているのです。これは自分が感じようと感じまいと事実です。問題はそのいのちが私たちの"我"という固い殻に覆われていて、その現れが見えて来ないことです。私たちの生まれつきの魂は、自らの意志を通し、自らの思いを守り、自らの感情に傷を受けまいとします。すなわち、私たちの魂は本質的性向として「自己主張」と「自己保存」いう強い欲求を持っています。
一方、神が求めておられるのは、私たちの内の神のいのちが、私たちを通して表現されることです。そのためにはどうしても私たちの"我(魂)"という硬い殻が一旦破られる必要があるのです。内に閉じ込められたいのちを解放するためにどうしても必要な過程です。これが私たちの「自己における死」です。
これはすでに十字架でなされていますが、神はあらゆる状況や問題を通して、時には理不尽な苦難を通して、その事実を私たちの経験にされます。例えばヨブの例を見てください。ヨブは当初、あくまでも自分の正当性を主張し、自己弁護し続けました。彼は神に対してさえも、自己の正当性を訴えたのでした。神はその間ずっと沈黙を保たれていましたが、最後に怒涛のごとくにヨブに語りかけられました、「お前は創造の神秘を知っているか、お前は命を造れるか、お前は自然を支配できるか・・・」と。
そしてついにヨブは告白しました:「知識もなくて、摂理を覆い隠した者は誰でしょう・・・今、この目であなたを見ました。それで私は自分を斥け(原語)、ちりと灰の中で悔い改めます」(四十二・1-6)。その後彼は二倍の祝福を得たのです。
神の御前で自己を否み、神によって完全に征服されることは、何という甘美な経験でしょうか!悔い改めの熱い涙が頬を伝う瞬間は、何と言うエクスタシーをもたらすことでしょう!神の愛の重い御手に触れられ、"我"が砕かれる瞬間はまさに天国です!小さな"我"を自分で保とうとすることのナンセンスを知るのです。神は手放しなさい、私に転帰しなさい、と語って下さっているのですが、小さな私が偏狭な私の"我"を守るのです。そして内なる神の命を閉じ込めているのです。
霊の解放
誰でも必ず、神の御手に触れられ、自分の最も強い部分(腿のつがい)をはずされ、びっこにされるという幸いな瞬間が訪れます。ヤコブのペニエルの経験です。彼は単独では歩けません。杖に頼らざるを得ないのです(ヘブル十一・22)。
しかしこのとき、内なるいのちが解放される準備が整います。内なるいのちは魂の殻が取り除かれれば、まったく自動的に芽を吹き出すのです。あのように柔らかな可憐な芽ですが、アスファルトさえ破って、太陽の光を求めて、成長し続けるのです。これこそ復活です。神の命は私たちの魂の傷口から芽を吹くのです。パウロは言いました:「私たちはたえずイエスのために死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」(第二コリント四・11)。
私たちの何かの要素がすべて無に帰する時、神のいのちが表現されます。私たちの古い自己はすでにイエスと共に十字架につけられています。しかし私たちの肉はその事実を認めたくないのです。私たちの大脳に刷り込まれた古い自己のイメージとその生き方を損ないたくないのです。すでにキリストにある新しい自己を得ているにも関わらず、古い自己のイメージを大切にして、新しい自己のいのちを出し惜しみするのです。この古い自己のイメージが砕かれることは、肉にとっては痛みを覚えますが、その死が訪れる時、残るのは復活のいのちの現れなのです。そこで聖書は純粋ないのちだけを解き放つために、何にもまして、自分の霊を制することを命じます(箴言二十五・28;原語、マラキ二・15,16、ルカ九・55;欄外注)。
こうして私たちは復活の領域においてこそ、キリストがなして下さった霊的事実を経験化することができるのです。この幸いな経験は、主観的に適用された十字架において、御霊によってなされます。十字架の死の効力が働くとき、私たちはキリストにあってすべてを得ます。何という栄光、何という希望でしょう!私たちは自分の肉が切り取られ、"我(魂の命)"の殻が破られることを恐れることはありません。それは復活への入り口だからです!クリスチャンの人生のすべては<死と復活の原則>によって支配される必要があります。(つづく)